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東大寺(とうだいじ)




東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。

金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。

奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた。

東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。

8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ、寺名は金光明寺と改められた。

大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、このころから「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。

聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。

難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことであった。

東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。

奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門と中門の間の左右には東西2基の七重塔(高さ約70メートル以上と推定される)が回廊に囲まれて建っていた。天平17年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。

奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後のことである。そのため、寺院では複数の宗派を兼学することが普通であった。東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗るが、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。平安時代には空海によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。

また、平安時代に入ると、桓武天皇の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受け、また講堂と三面僧房が失火で、西塔が落雷で焼失したり、暴風雨で南大門、鐘楼が倒壊したりといった事件が起こるが、後に皇族・貴族の崇敬を受けて黒田荘に代表される多数の荘園を寄進されたり、開発した。やがて、南都の有力権門として内外に知られるようになり、多数の僧兵を抱え、興福寺などと度々強訴を行っている。

東大寺は、近隣の興福寺と共に治承4年12月28日(1181年1月15日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失った。この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗房重源(ちょうげん)であった。重源の精力的な活動により、文治元年(1185年)には後白河法皇らの列席の下、大仏開眼法要が、建久元年(1190年)には上棟式が行われた。建久6年(1195年)には再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席の下、落慶法要が営まれた。

その後、戦国時代の永禄10年10月10日(1567年11月10日)、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した(東大寺大仏殿の戦い参照)。天正元年(1573年)9月、東大寺を戦乱に巻き込むことと乱暴狼藉を働く者に対しての厳罰を通達する書状を出している。仮堂が建てられたが慶長15年(1610年)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。その後の大仏の修理は元禄4年(1691年)に完成し、再建大仏殿は公慶(1648 - 1705年)の尽力や、江戸幕府将軍徳川綱吉や母の桂昌院を初め多くの人々による寄進が行われた結果、宝永6年(1709年)に完成した。この3代目の大仏殿(現存)は、高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の11間からおよそ3分の2の7間に縮小されている。また、講堂、食堂、東西の七重塔など中世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石や土壇のみが残されている


創建年:8世紀前半 開基:聖武天皇 本尊:盧舎那仏 別称:金光明四天王護国之寺 宗派:華厳宗


 
 
 
 
 南大門のずっと手前の店が両側に並んでいる右側の店の裏に東大寺の石碑がありました。  建築以来2度の風雨により倒壊したが鎌倉初期の建物が残り国宝となっている、この写真は先ほどの碑の距離から撮ったものです。  吽形像、右の阿形像に比べなにがなんでもと紛れ込む悪い人を大目に見て中で本尊のご加護で良い人になるよう見張っているそうです。組み込まれていた部材は3000にものぼり69日で製作されたとのことです。
 阿形像、良い人、悪い人、合わせてお参りに来るので悪い人を一人も一歩も門内にいれないように見張りをしているそうです
 
 
 
 
 南大門、屋根は入母屋造りの二重門。一本の通柱が上重屋根の下まで立ち上がっている。下のは階裳ではなく、腰屋根というそうです。柱には松永・三好の戦の際の鉄砲玉(1567年のあとがありました。  中門(ちゅうもん)南大門と大仏殿の間にあり大仏参詣にはここから参拝料が必要です。  中門を入り大仏殿に向かって左側から大仏殿に向かった。その回廊の写真です。 その回廊から撮った大仏殿です。通常は真正面に大仏殿を見て入りますので少々雰囲気が違いました。
 
 
 
 
 現在の大仏の大きさ、高さ15m、台座3m、手2.6m、顔5.3m、目1m、鼻1m、口1.3m、耳2.5mもあるそうです。  天平時代に作られた部分も膝部と台座の蓮弁部に残っているが1180年(平氏の南都焼きうち)と1567年(松永・三好の戦)に焼け、都度修復が加えられ現在にのこったらしいです。
 右手は前にかざしており人々の恐怖を取り除く。左手は手の平を上に向け、膝のあたりにおいている、人々の願いを受け入れるとのことだそうです。  大仏殿から中門を臨む、真ん中にある金銅八角灯籠は後程近くで撮った写真がありますのでそこで。
 
 
 
 
 虚空蔵菩薩坐像、大仏の左に脇侍として安置される30数年をかけて製作されたもので、江戸時代の代表的な仏教彫刻であるとのこと。寺院内で仏像の写真が撮れるのはめずらしい。  廣目天、千里眼を持ってこの世を観察し、仏の教えとそれを信じる者を護る仏様であるらしい。なかなか難しい。  多聞天、仏教の教えを多く聞いて精通しており仏教を守護する仏様らしい。  木造如意輪観音坐像、大仏の右に脇侍として安置される。丁度虚空蔵菩薩坐像と左右に配置されている。
 
 
 
 
 大仏蓮弁(これは観光用のベプリカ)、造立当初のものが残っているらしいが釈迦如来が上にその下に説法を聞く22菩薩は、下方7つの円を描き須弥山世界が書かれているとか。拡大して見て下さい、分かります?  奈良時代の東大寺、当初は左右に塔があり今とは趣が全く異なります。  四天王の内持国天と増長天、大仏殿の右の奥に頭だけ祀られており本当かどうか分からないが場所がなかったとか?  1本の柱の下にだけ30cm、37cm位の穴が、諸説あるようですがこの柱は鬼門の方向でこれをくぐると厄払いになるとか、子供に大人気のようです。
 
 
 
 
鴟尾、高さは3mもあるようでこれも大仏殿の右の一番奥に置かれていた。 これが先ほどの金銅八角灯籠です。大仏殿の前にあり天平時代に作られたそうです。大きな火袋に楽器わ奏でる天人が浮き彫りにされていました。国宝だそうです。  近くで見上げる大仏殿、さすがに迫力があり大きいです。  大仏殿(金堂)大きさは間口57m、奥行き50.5m高さ46.8mで世界最大の木造建築です。これでも創建当初の2/3のようで当時の凄さが計り知れません。
 
 
 
 
 大仏殿の東の回廊の外、これから2月堂等へ向かいます。  東大寺の東を中心とするお堂の配置図。  鐘楼、日本三大名鐘の一つで突き棒が鐘にあたる所が少し下がっています。これは力自慢の武士が鐘をついたところ7日間鳴り続けこれに懲りた奈良の人々が突き棒の位置を下げたとか、真相は分かりません。  旧暦2月に「お水取り」(修二会)が行われることからこの名がある。二月堂は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の大火には焼け残ったとされているが、寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物だそうです。
 
 
 
 
 先ほどの2月堂です、鹿がのんびり草を食んでいます。  同じく2月堂、あの高い位置から松明の火の粉が飛び交います。私はこのに時期には来た事がありません。  2月堂から大仏殿を臨む。高さは同じくらいかな?  3月堂、境内の東方、若草山麓にある。東大寺に残る数少ない奈良時代建築の1つであり、天平仏の宝庫として知られるそうです。確かに古そうでした。
 
 
 
 
 同じく3月堂、瓦の色から左と右が別の建物であったことが分かりますか?  4月堂、千手観音が祀られているらしいんですが、今は修理中で堂内も工事をされていました。 東塔跡、少し盛り上がった土地の上にあったそうです。  転害門、、境内西北、正倉院の西側にある八脚門。平重衡の兵火1180年、三好・松永の戦い(1567年)の2回の大火にも焼け残った寺内で数少ない建物の1つだそうです。目の前は国道です。




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