少し早めの紅葉の名所談山神社・YOU YUBEでどうぞ |
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①楼門 | 拝殿と繋がって建てられている楼門は、江戸時代に建てられた重要文化財。木部を朱色に塗った白壁の建物で、屋根は入母屋で檜皮葺。 |
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②拝殿 | 屋根続きになっている拝殿は、1520年に建てられたもので、高く土台が設けられた舞台造になっている。周囲に巡らされた回廊には高欄があり、軒からは銅製の灯籠が釣り下げられている。 拝殿内部の天井には伽羅香木が使われ、談山神社にまつわる展示がされている |
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③十三重塔 |
楼門の向かい側に建つ十三重塔は、談山神社を象徴するような建築のひとつで、もともとは鎌足の長男、定恵和尚が父の供養のために建てたもの。 |
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④宝庫 |
本殿の東西に建つ宝庫は、1619年のものが現存している。 |
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⑤比叡神社 | 社地の西端にある比叡神社本殿は1627年に建てられたもの。 一間社流造で、千鳥破風と軒唐破風が設けられた檜皮葺の屋根を持ち、色彩が残る鮮やかな社殿となっている。 もともとは飛鳥の大原宮にあったものを移築したそうで、明治以前までは山王宮と呼ばれていたという |
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⑥神廟拝所 |
十三重塔から一段下がったところには、神廟拝所が建てられている。 |
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⑦総社拝殿 |
神廟拝所の向かい側に建てられた総社拝殿は、1668年の建築。 |
談山神社(たんざんじんじゃ) |
鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である中臣鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(参照:阿武山古墳)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。天武天皇9年(680年)に講堂(現在の拝殿)が創建され、そこを妙楽寺と号した。大宝元年(701年)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現在の本殿)が建立され、聖霊院と号した。談山の名の由来は、中臣鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。 平安時代には藤原高光が出家後に入山、増賀上人を招聘するなど、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げた。鎌倉時代には曹洞宗本山永平寺の二世、孤雲懐奘(大和尚)が参学した。一方、平安時代に天台僧・増賀を迎えたことから、同じ大和国の藤原氏縁の寺院でありながら宗派の違う興福寺とは争いが絶えず、鎌倉時代から室町時代にかけて度々領地などを巡り争論を繰り広げ、多武峯妙楽寺側の十市氏、越智氏は興福寺側の楢原氏、布施氏、北隅氏らの軍勢と小競り合いを繰り返していた。 天仁2年(1108年)には浄土院、食堂、経蔵、惣社、大温室、多宝塔、灌頂堂、五大堂、浄土堂に加え、近くの鹿路の村々が悉く焼かれた。特に十三重塔が承安3年(1173年)に興福寺衆徒勢の焼き討ちで消失し、文治元年(1185年)に再興されている。なお、現在の十三重塔は享禄5年(1532年)に再建されたもので、木造の十三重塔としては世界で唯一現存するものである。その後も、永享9年(1437年)からの越智、箸尾両氏の室町幕府軍への抵抗戦(大和永享の乱)、永正3年(1506年)8月の赤沢朝経軍に対する大和国人一揆(十市氏、越智氏、箸尾氏)の抵抗戦、永禄2年(1559年)からの松永久秀に対する十市氏の抵抗戦といった「多武峰合戦」と称する3つ抵抗戦が起きるなど、ここを舞台とする戦乱は絶えることがなかった。 天正13年(1585年)、豊臣秀吉により郡山城下に移すことを厳命され破却、遷座。天正18年(1590年)に帰山を許された。徳川家康により復興。近世の朱印領は3,000石余である。 明治2年(1869年)に僧徒が還俗。談山神社と改称された。(2013.11.14訪問) |
創建年:678年 | 開基:・・ | 主祭神:中臣鎌足 | 別称:・ | 本殿の様式:春日造 |