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①本堂   
金堂・講堂の西側に、東を正面として建つ。寄棟造、本瓦葺。桁行7間、梁間6間。梁行6間のうち、奥の3間を内陣、手前の3間を礼堂とし、内陣は須弥壇上に高さ約5メートルの厨子(国宝)を置き、本尊の当麻曼荼羅を安置する。左右(南北)端の桁行1間分は局(小部屋)に分け、北側西端の間には織殿観音と通称される十一面観音立像を安置する。背面北側の桁行3間分には閼伽棚が付属する。1957年から1960年にかけて実施された解体修理時、棟木に永暦2年(1161年)の墨書が発見され、平安時代末期の建築であることがわかった。  
②金堂   
鎌倉時代の再建。入母屋造、本瓦葺。桁行5間、梁間4間。組物は二手先、中備(なかぞなえ)を間斗束(けんとづか)とする。屋根は元は厚板を葺いた木瓦葺きであった。内部は土間で、中心の桁行3間、梁間2間を内陣とする。内陣いっぱいに漆喰塗り、亀腹形の仏壇を築き、本尊の塑造弥勒仏坐像、乾漆四天王立像などを安置する。藤原京や平城京の大寺の金堂に比較すれば小規模だが、氏寺の金堂としてはふさわしい規模とされ、創建以来の規模を保っているものと思われる。 
③講堂 
 
金堂の背後(北)に建つ。寄棟造、本瓦葺。桁行7間、梁間4間。組物は平三斗、中備(なかぞなえ)を間斗束(けんとづか)とする。野垂木の墨書により鎌倉時代末期の乾元2年(1303年)の再建であることが知られる。屋根は金堂と同様、元は厚板を葺いた木瓦葺きであった。堂内は梁行4間のうち中央の2間分に板床を張り、本尊阿弥陀如来坐像、もう1体の阿弥陀如来坐像、妙幢菩薩立像、地蔵菩薩立像(以上重要文化財)のほか、多くの仏像を安置する。床下に焼土層が認められ、治承4年(1180年)平家の兵火により焼失したことが裏付けられる。 
④東塔   
 三重塔で、総高(相輪含む)は24.4メートル。細部の様式等から、奈良時代末期の建築と推定される。初重が通常どおり3間(柱が一辺に4本立ち、柱間が3つあるという意味)であるのに対し、二重・三重を2間とする。日本の社寺建築では、柱間を偶数として、中央に柱が来るのは異例である。三重を2間とするのは法起寺三重塔に例があるが、日本の古塔で二重目の柱間を3間でなく2間とするのは當麻寺東塔のみである]。屋根上の相輪には、一般の塔では「九輪」という9つの輪状の部材があるが、本塔では八輪になっている。さらに、相輪上部の水煙(すいえん)が、他に例をみない魚骨状のデザインになるなど、異例の点が多い塔である。なお、水煙は創建当初のものかどうか定かでない。初重内部には床を張るが、当初のものではない。
⑤西塔 
 
三重塔で、総高(相輪含む)は東塔よりやや高い25.2メートル。様式からみて、東塔よりやや遅れ、平安時代初期の建築と推定される。西塔は、高さ以外にも東塔とは異なる点が多い。柱間は初重から三重まで3間とする。屋根上の相輪が八輪になっている点は東塔同様だが、水煙のデザインは未敷蓮華(みふれんげ)をあしらったもので、東塔のそれとは異なっている。初重内部は心柱の周囲に板を張り、そこに三千仏図と浄土曼荼羅図が描かれていた痕跡がある。大正期の修理時に、心柱頂部に舎利容器が奉籠されているのが発見された。同時に発見された文書から、この舎利容器は建保7年(1219年)に行われた修理時に納められたものであることがわかるが、心柱の地下ではなく頂部に舎利を納めるのは中世以前では類例が少ないまた、東塔はヒノキ材であるが、西塔はケヤキ材(一説にカリン材)が使われている。これも平安時代までの建築として広葉樹材が使われることは異例。 
⑥鐘楼   
国宝。無銘ながら、作風等から日本最古級と推定される梵鐘で、當麻寺創建当時の遺物と推定される。2か所にある撞座の蓮弁の枚数が一致しない(一方が10弁でもう一方が11弁)等、作風には梵鐘が形式化する以前の初期的要素がみられる。鐘楼の上層に懸けられており、間近で見学することはできない。 
⑦中之坊 
 
 真言宗の子院。中将姫剃髪の地と伝承され、中将姫の仏法の師である実雅の開基というが、開創の詳しい事情は不明である。書院(重要文化財)と庭園(史跡・名勝)で知られる。
庭園は築地塀で内庭と外庭に分かれ、内庭は當麻寺の東西両塔を借景とした池泉回遊式庭園。外庭は山の斜面に造園されている。片桐石州の作庭と伝える。當麻寺内では他に護念院と西南院に江戸期作庭の庭園がある。
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⑧奥院 
 
浄土宗の子院。応安3年(1370年)、知恩院12世の誓阿普観が創建したもので、当初は往生院と称した。当院は知恩院の奥の院とされ、近世以降は「当麻奥院」と称された。宗教法人としての名称も「奥院」である。誓阿が知恩院から移したとされる円光大師(法然)像(重要文化財)を本尊とし、知恩院所蔵の四十八巻伝の副本とされる『法然上人絵伝』48巻(重要文化財)を所蔵する。慶長9年(1604年)建立の本堂、慶長17年(1612年)建立の方丈、正保4年(1647年)建立の鐘楼門は重要文化財に指定されている。

近畿日本鉄道南大阪線当麻寺駅下車徒歩15分



当麻寺(たいまでら)

當麻寺(たいまでら、新字体:当麻寺)は、奈良県葛城市にある7世紀創建の寺院。法号は「禅林寺」。山号は「二上山]。創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となっている。開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。

西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である。毎年5月14日に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には多くの見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。奈良時代 - 平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られる。大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。本項では寺号と行政地名については現地における表記を尊重して「當麻」とし、人名、作品名等については「当麻」の表記を用いる。

当麻曼荼羅への信仰が広がり始めた鎌倉時代になって、ようやく各種書物や記録に當麻寺の草創縁起が見られるようになる。その早い例は、12世紀末、鎌倉時代初期に成立した『建久御巡礼記』という書物である。これは、建久2年(1191年)、興福寺の僧・実叡がさる高貴の女性(鳥羽天皇の皇女八条院と推定される)を案内して大和の著名寺社を巡礼した際の記録である。同書に載せる縁起によれば、この寺は法号を「禅林寺」と称し、聖徳太子の異母弟である麻呂古王が弥勒仏を本尊として草創したものであり、その孫の当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が天武天皇9年(680年)に「遷造」(遷し造る)したものだという。そして、当麻の地は役行者ゆかりの地であり、役行者の所持していた孔雀明王像を本尊弥勒仏の胎内に納めたという。

建長5年(1253年)の『大和国當麻寺縁起』によれば、麻呂子王による草創は推古天皇20年(612年)のことで、救世観音を本尊とする万宝蔵院として創建されたものであるという。その後、天武天皇2年(673年)に役行者から寺地の寄進を受けるが、天武天皇14年(685年)に至ってようやく造営にとりかかり、同16年(687年)に供養されたとする。『上宮太子拾遺記』(嘉禎3年・1237年)所引の『当麻寺縁起』は、創建の年は同じく推古天皇20年とし、当初は今の當麻寺の南方の味曽地という場所にあり、朱鳥6年(692年か)に現在地に移築されたとする。なお、前身寺院の所在地については味曽地とする説のほか、河内国山田郷とする史料もある(弘長2年・1262年の『和州當麻寺極楽曼荼羅縁起』など)。河内国山田郷の所在地については、交野郡山田(現大阪府枚方市)とする説と、大阪府太子町山田とする説がある。

以上のように、史料によって記述の細部には異同があるが、「聖徳太子の異母弟の麻呂子王によって建立された前身寺院があり、それが天武朝に至って現在地に移転された」という点はおおむね一致している。福山敏男は、縁起諸本を検討したうえで、麻呂子王による前身寺院の建立については、寺史を古く見せるための潤色であるとして、これを否定している。前述のように、寺に残る仏像、梵鐘等の文化財や、出土品などの様式年代はおおむね7世紀末まではさかのぼるもので、當麻寺は壬申の乱に功績のあった当麻国見によって7世紀末頃に建立された氏寺であるとみられる
奈良時代から平安時代にかけての寺史は、史料が乏しく、詳しいことはわかっていない。現存する本堂(曼荼羅堂)は棟木墨書から永暦2年(1161年)の建立と判明するが、解体修理時の調査の結果、この堂は奈良時代に建てられた前身建物の部材を再用していることがわかっている。寺に伝わる当麻曼荼羅は、前出の『建久御巡礼記』によれば、天平宝字7年(763年)に作られたとされている。『弘法大師年譜』には弘仁14年(823年)、空海が當麻寺を訪れて曼荼羅を拝し、それ以降、當麻寺は真言宗寺院となったという伝えがある。

治承4年(1180年)、平重衡の南都焼き討ちにより、東大寺、興福寺などの伽藍の大部分が焼失したが、興福寺と関係の深かった當麻寺も焼き討ちの被害に遭い、東西両塔などは残ったが、金堂、講堂など、一部の堂宇を焼失した。

平安時代末期、いわゆる末法思想の普及に伴って、来世に阿弥陀如来の西方極楽浄土に生まれ変わろうとする信仰が広がり、阿弥陀堂が盛んに建立された。この頃から當麻寺は阿弥陀如来の浄土を描いた「当麻曼荼羅」を安置する寺として信仰を集めるようになる。中でも浄土宗西山派の祖・証空は、貞応2年(1223年)に『当麻曼荼羅註』を著し、当麻曼荼羅の写しを十数本制作し諸国に安置して、当麻曼荼羅の普及に貢献した。(2014.1.28訪問)


創建年:612年 開基:伝・麻呂古王 本尊:当麻曼荼羅 別称: 宗派:高野山真言宗、浄土宗
奥院牡丹
東塔
⑤西塔
仁王門
⑦中之坊
⑥鐘楼
②金堂
③講堂
①本堂
⑧奥院