正暦寺(しょうりゃくじ)




 
正暦3年(992年)、一条天皇の発願により、関白藤原兼家の子兼俊僧正が創建した。往時には、報恩院以下86坊の堂塔伽藍が建ち並ぶ大寺院であったが、治承4年(1180年)に、平重衡による南都焼き討ちによって焼失した。

建保6年(1218年)、別当として南都焼き討ちで荒廃した興福寺の再興に約10年に渡り尽力した後、その地位を退いた大乗院院主の信円僧正が隠遁先として当寺を選び、「菩提山僧正」あるいは「菩提山御房」と呼ばれた。信円は当寺を法相宗の学問所として再興し、以後信円からその座を受け継いだ歴代大乗院門跡が当寺の門跡を兼帯、興福寺の別院正願院門跡となった。金堂、弥勒堂、講堂、十三重宝塔、経蔵、御影堂、鐘楼、六所社および別院などが整備された。また、報恩院家が開山の兼俊僧正の別院として寺務を管轄し、安養院と別院仰接院は浄土宗の念仏道場となった。

江戸時代に入り、慶長6年(1601年)には寺禄は約1000石を数えていたが、応仁の乱後に再興された82坊によって、往時の様を取り戻していた。本堂、三重塔、護摩堂、観音堂、地蔵堂、灌頂堂、鐘楼、経蔵、如法経堂、御影堂、十三重塔、弥勒堂、六所明神、鎮守などの堂塔伽藍が建ち並んでいたという。

寛永6年(1629年)、堂塔伽藍が焼失、300石の朱印地を与えられることとなった。江戸中期以降は、法相宗の影響が次第に薄れ、真言宗の仁和寺の末寺となった。

明治の廃仏毀釈によって荒廃した。往時の威容は、参道沿いに延々と続く石垣によってしのぶことができる。昭和42年(1967年)、本山仁和寺から独立し、菩提山真言宗大本山を名乗る。(2013.11.23訪問)


創建年:992年 開基:兼俊僧正 本尊:薬師如来 別称:・・・ 宗派:菩提山真言宗
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①福寿院 
 

1681(延宝9年)に建替え・建立された建物で、上壇の間を持つ数寄屋風客殿建築であり、国の重要文化財に指定されています。

福寿院では県指定重要文化財の孔雀明王像、京狩野3代目 狩野永納筆の襖絵、正暦寺の大自然を見渡す借景庭園、護摩堂を通年、拝観できます。

 
②本堂・鐘楼 
 

正暦寺で最も聖域である本堂は1916年(大正5年)に再建されたものです。本堂に登るための石段右脇には、正暦寺で亡くなられた僧侶の墓石を集めた供養塔があります。

また石段は観世音菩薩の誓願の数にちなんだ33段と、阿弥陀如来の誓願の数にちなんだ48段、合計81段になっています。この石段をすべて登りきることで、観世音菩薩と阿弥陀如来のご加護を受けられるとされています。

石段を登ると本堂境内が広がり、鐘楼〈1925年(大正15年)に再建〉と本堂がたたずんでいます。元々あった伽藍はすべて消失していますが、自然の豊かさと昔と変わらぬ祈りの空間に触れることのできる聖域となっています。

 
③清酒発祥の地   

本来、寺院での酒造りは禁止されていましたが、神仏習合の形態をとる中で、鎮守や天部の仏へ献上するお酒として、荘園からあがる米を用いて寺院で自家製造されていました。

このように荘園で造られた米から僧侶が醸造するお酒を「僧坊酒」と呼んでいます。正暦寺は創建当初は86坊、多い時には120坊を抱え、大量の「僧坊酒」を作る筆頭格の大寺院でありました。

当時の正暦寺では、仕込みを3回に分けて行う「三段仕込み」や麹と掛米の両方に白米を使用する「諸白もろはく造り」、酒母の原型である「菩提酛ぼだいもと造り」、さらには腐敗を防ぐための火入れ作業行うなど、近代醸造法の基礎となる酒造技術が確立されていました。

これらの酒造技術は室町時代を代表する革新的酒造法として、室町時代の古文書『御酒之日記』や江戸時代初期の『童蒙酒造記』にも記されています。

 



JR奈良駅・近鉄奈良駅から、米谷町行きバスで23分「柳茶屋」下車、徒歩30分





本堂横から
③清酒発祥の地碑
福寿院門
福寿院
瑠璃殿
②鐘楼
②本堂