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①法堂 
 
「無畏堂」とも言い、慶長10年(1605年)、豊臣秀頼の寄進によって再建された。日本にある法堂建築としては最古のものである。天井にある龍の絵は狩野光信の手になる。特定の場所で手を打つと反響するため、「鳴き龍」と呼ばれる。 
②開山堂 
 
開山・夢窓疎石の像を祀る堂で、桃園天皇の皇后である恭礼門院の女院御所内の御殿を文化文化4年(1807年)に下賜されたもの。 
③方丈 
 
文化4年(1807年)の再建。 
④庫裏 
 
文化4年(1807年)の再建。 
⑤浴室 
 
応永7年(1400年)頃の創建。現在のものは慶長4年(1596年)の再建。蒸気浴をしながら柄杓で湯をかけて入浴を行ったとされる 



京都市営地下鉄 烏丸線 今出川駅下車、徒歩5分




相国寺(しょうこくじ)


相国寺(しょうこくじ)は、日本の禅寺。京都市上京区にある臨済宗相国寺派大本山の寺である。山号を萬年山(万年山)と称し、正式名称を萬年山相國承天禅寺(万年山相国承天禅寺、まんねんざん しょうこくじょうてんぜんじ)という。

本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利義満、開山(初代住職)は夢窓疎石である。

足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。

永徳2年(1382年)、室町幕府3代将軍・足利義満は、花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願。竣工したのは10年後の明徳3年(1392年)であった。

義満は、禅の師であった春屋妙葩に開山となることを要請したが、妙葩はこれを固辞。妙葩の師夢窓疎石を開山とするなら、自分は喜んで2世住職になると返したため、疎石が開山となった。尤も、2世住職・妙葩も相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388年)に没している。

相国寺は京都最大の禅宗寺院の1つとして、また五山文学の中心地として栄えたが、たびたび火災に見舞われた。伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)に全焼。義満による七重大塔も数年で焼失したが、七重大塔は全高(尖塔高)109.1m(360尺。比較資料:1 E2 m)を誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔である。昭和4年(1929年)の依佐美送信所鉄塔(250m)竣工までのおよそ530年間、高さ歴代日本一の記録は破られなかった。義満没後の応永32年(1425年)に再度全焼している。

応仁元年(1467年)には相国寺が応仁の乱の細川方の陣地となったあおりで焼失(相国寺の戦い)。天文20年(1551年)にも細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれて焼失(相国寺の戦い)、ここまでで都合4回焼失している。天正12年(1584年)、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌が住職となり、復興を進めた。現存する法堂はこの時期に建立されたものである。その後も元和6年(1620年)に火災があり、天明8年(1788年)の「天明の大火」で法堂以外のほとんどの堂宇を焼失した。現存の伽藍の大部分は19世紀はじめの文化年間の再建である。(2014.5.7訪問)


創建年:1382年 開基:足利義満、夢窓疎石(開基) 本尊:釈迦如来 別称:・・・ 宗派:臨済宗相国寺派
大光明寺
⑤浴室
④庫裡
③方丈
惣門
勅使門
林光院
光源院
三門跡
鐘楼
弁天社
大通院
②開山堂
宝塔
①法堂