YOU TUBEでご覧下さい |
①大門 | 慶長年間(江戸時代初頭)造営の御所の門を移築したもの。 |
|
②楊貴妃観音堂 | 大門を入ってすぐ左手の奥まったところに建つ。中国・南宋時代の作である観音菩薩坐像(通称楊貴妃観音)を安置する。 | |
③仏殿 | -寛文8年(1668年)、徳川家綱の援助で再建したもの。密教寺院の中心堂宇は「本堂」「金堂」と称することが多いが、当寺では宋風の「仏殿」の呼称を用いる。内部は禅寺風の土間とし、柱、窓、組物、天井構架等の建築様式も典型的な禅宗様になる。本尊は過去・現在・来世を表す釈迦・阿弥陀・弥勒の3体の如来像を安置する。天井の竜の図と本尊背後の白衣(びゃくえ)観音図は狩野探幽の筆になる。 | |
④舎利殿 | 仏殿の背後に建つ。俊芿の弟子湛海が南宋慶元府の白蓮寺から請来したという仏牙舎利(釈尊の歯)を安置する。 | |
⑤霊明殿 | 天智天皇と光仁天皇から昭和天皇(南北両朝の天皇も含む)に至る歴代天皇皇后の尊牌(位牌)を安置する。1884年の再建。 | |
⑥御在所 | 仏殿・舎利殿の背後に建つ。安政年間(江戸時代末期)に建立され、明治天皇が使用していた旧御所の御里御殿を1884年に移築したもの。女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などがある。玉座の間は、天皇皇后が来寺した際に休息所として使用する部屋である。平成期(1989年-)に入ってからは、即位報告(1990年)、平安建都1,200年記念(1994年)、在位10年の報告(1999年)などの際に今上天皇が泉涌寺を訪れ、この部屋を使用している。 |
京都市営バス(202・207・208系統)「泉涌寺道」バス停下車、総門まで徒歩約5分、大門まで徒歩約10分。
JR奈良線、京阪本線「東福寺駅」から総門まで徒歩約15分、大門まで約20分。
泉涌寺(せんにゅうじ) |
仁和寺、大覚寺などと共に皇室ゆかりの寺院として知られるが、草創の時期や事情についてはあまり明らかではない。伝承によれば、斉衡3年(856年)、藤原式家の流れをくむ左大臣藤原緒嗣が、自らの山荘に神修上人を開山として草創。当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めたという。なお、『続日本後紀』によれば藤原緒嗣は承和10年(843年)に没しているので、上述の伝承を信じるとすれば、藤原緒嗣の遺志に基づき、菩提寺として建立されたということになる。 別の伝承は開創者を空海とする。すなわち、空海が天長年間(824年-834年)、この地に草創した法輪寺が起源であり、斉衡2年(855年)藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとするものである。空海による草創年代を大同2年(807年)とする伝承もあり、この寺院が後の今熊野観音寺(泉涌寺山内にあり、西国三十三所観音霊場の第15番札所)となったともいう。以上の伝承を総合すると、平安時代初期に草創された前身寺院が平安時代後期には荒廃していたのを、鎌倉時代に再興したものと思われる。 鎌倉時代の建保6年(1218年)、宇都宮信房が、荒廃していた仙遊寺を俊芿に寄進、俊芿は多くの人々の寄付を得てこの地に大伽藍を造営し、霊泉が湧いたので、寺号を泉涌寺としたという(旧寺号の「仙遊寺」と音が通ずる点に注意)。宇都宮信房は源頼朝の家臣で、豊前国守護に任じられた人物であり、俊芿に帰依していた。俊芿(1166-1227)は肥後国(熊本県)出身の学僧で、正治元年(1199年)宋に渡り、足かけ13年の滞在で天台と律を学び、建暦元年(1211年)日本へ帰国した。彼は宋から多くの文物をもたらし、泉涌寺の伽藍は全て宋風に造られた。
|
創建年:856年 | 開基:伝・神修上人 | 本尊:釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来 | 別称:御寺(みてら) | 宗派:真言宗泉涌寺派 |