清凉寺(せいりょうじ)は、京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町にある浄土宗の寺院。山号は五台山(ごだいさん)。本尊は釈迦如来(生身の釈迦)。開基は奝然、開山はその弟子の盛算(じょうさん)である。嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)の名でも知られる。
宗派は初め華厳宗として開山し、その後天台宗、真言宗を兼ねた。室町時代より融通念仏宗の道場として発展した。また、幕末まで愛宕山白雲寺(現・愛宕神社)の山下別当寺であった歴史をもつ。
この寺の歴史には、阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺という2つの寺院が関係している。
この地には、もともと嵯峨天皇の皇子で、「源氏物語」の主人公光源氏のモデルとされる左大臣源融(822年 - 895年)の別荘栖霞観(せいかかん)があった。源融の一周忌に当たる寛平8年(896年)、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。その後天慶8年(945年)に、重明親王妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置した。一説では、「釈迦堂」の名の起こりはこの時であるという。
棲霞寺草創から数十年後、宋に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然(938年 - 1016年)という東大寺出身の僧がいた。奝然は、宋へ渡航中の寛和元年(985年)、台州の開元寺で現地の仏師に命じて1体の釈迦如来像を謹刻させた。その釈迦像は、古代インドの優填王(うでんおう)が釈迦の在世中に栴檀の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」や、釈迦に生き写しとされ、生きているお釈迦様「生身の釈迦」と呼ばれているものである。奝然は、永延元年(987年)日本に帰国後、京都の愛宕山を宋の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦如来立像を安置する寺・大清凉寺を建立しようとしたが、様々な障害に阻まれ、一旦京都の船岡山にある蓮台寺に釈迦像を運び込むことになる。
奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置することで、南都系の旧仏教の都における中心地としようとしたものと思われる。すなわち、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に拠点となる大清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとした、という意図が込められていたとされる。しかし、延暦寺の反対にあい、その願いを達しないまま長和5年(1016年)、奝然は没した。彼の遺志を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺の釈迦堂に「栴檀の瑞像」(前述の三国伝来の釈迦像)を安置すると、釈迦堂は華厳宗の寺・五台山清凉寺と改変された。その後、華厳宗の他に天台宗、真言宗を兼ねるようになる。また、愛宕山白雲寺(現・愛宕神社)の山下別当寺ともなった。
融通念仏との結びつきができたのは、弘安2年(1279年)以降のことである。この年、大念仏中興上人と呼ばれる円覚が、当寺で融通念仏を勤修している。その後、当寺で大念仏が盛んになり、釈迦堂は融通念仏宗の道場となった。嵯峨大念仏が初めて執行された時期は、時代を下って嘉吉3年(1443年)のこととされる。その後、応仁の乱で本寺の伽藍は焼失するが、文明13年(1481年)に再興された。
享禄3年(1530年)に円誉が当寺に入り、初めて十二時の念仏を勤修してより、本寺は浄土宗の寺となる。釈迦堂(本堂)は、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって寄進・造営されたが、その後、寛永14年(1637年)に発生した嵯峨大火で類焼し、本堂以下の伽藍が被災した。また、大地震の被害もあって伽藍の破損は甚大となる。
本寺の釈迦像は、前述のとおり、10世紀に宋で制作されたものであるが、中世頃からはこの像は模刻像ではなく、インドから招来された栴檀釈迦像そのものであると信じられるようになった]。こうした信仰を受け、元禄13年(1700年)より、本尊の江戸に始まる各地への出開帳が始まる。また、徳川綱吉の母である桂昌院の発願で、伽藍の復興が行われた。
このように、三国伝来の釈迦像・生身の釈迦は信仰を集め、清凉寺は「嵯峨の釈迦堂」と呼ばれて栄えた。しかし、明治時代の神仏分離によって愛宕山白雲寺は愛宕神社になり、山下別当寺であった当寺は愛宕山から分離された。
一方、母体であった棲霞寺は次第に衰微してやがて清凉寺に吸収されたが、今に残る阿弥陀堂や、阿弥陀三尊像(国宝、現在は霊宝館に安置)に、その名残をとどめている。
(2023.10.4参詣)
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