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①本堂 | 入母屋造、檜皮葺き。鎌倉時代前期の和様建築。中世天台仏堂の代表作として国宝に指定されている。内陣中央の厨子には本尊薬師如来立像(重要文化財、秘仏)を安置し、左右に日光・月光(がっこう)菩薩像、十二神将像、二天王像(重要文化財)などを安置する。現状は桁行(間口)梁間(奥行)ともに7間とする「七間堂」であるが、解体修理時の調査の結果、建立当初は桁行、梁間ともに5間の「五間堂」であり、南北朝時代に規模を拡張したとみられる。組物間の蟇股(かえるまた)には建立当初のものと南北朝時代の拡張期のものとがあり、後者の方がデザインが複雑になっている。建立当初の柱はその多くが位置を移動して再用されている。組物は出三斗(でみつと)。正面には3間の向拝を付し、内部は奥行7間のうち手前の3間分を外陣、その奥の2間分を内陣、もっとも奥の2間分を後陣および脇室とする。正面は7間の柱間すべてを蔀戸(しとみど)とし、頭貫(かしらぬき)以外の貫を用いず、軸部は内法長押(うちのりなげし)と切目長押で固めるなど、典型的な和様建築の手法になる。 |
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②二天門 | 桁行(間口)3間、梁間(奥行)2間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語。以下の本文においても同様)。入母屋造、杮(こけら)葺きの八脚門。部材の一つである巻斗に応永14年(1407年)の墨書があり、同年の建立とみられる。 | |
③三重塔 | 本堂の右(南)に建つ。檜皮葺きの和様の三重塔である。様式的に鎌倉時代後期の建築とされる。総高は20.1メートル。逓減率が小さいことと、二重目・三重目の塔身の立ちが低いことが本塔の特色である。相輪は日本の他の木造塔では銅製とすることが多いが、本塔のそれは鉄製である。初層内部には大日如来像を安置し、心柱は初層天井裏から立つ。初層内部は須弥壇と床面を除く全面に極彩色の絵画が描かれているが、現状ではかなり剥落している。絵画の主題は、内部の4本の柱(四天柱)には両界曼荼羅のうち金剛界曼荼羅成身会(じょうじんね)の三十二菩薩(四波羅蜜菩薩、十六大菩薩、八供養菩薩、四摂菩薩)を表し、四方の扉脇の壁面には計8面に法華経曼荼羅図(法華経二十八品(章)の説話の絵画)を表している。このほか、扉には八方天、須弥壇周りの長押には宝相華、牡丹、鳳凰などが描かれている。このうち柱4本と壁8枚は国宝建造物の一部であるとともに、「絵画」としても別途重要文化財に指定されている。 |
西明寺(さいみょうじ) |
西明寺(さいみょうじ)は滋賀県犬上郡甲良町にある天台宗の仏教寺院。山号を龍応山(りゅうおうざん)と称する。本尊は薬師如来、開基は三修上人である。金剛輪寺、百済寺とともに「湖東三山」の1つに数えられる。西国薬師四十九霊場第三十二番札所。 上述の承和3年建立を立証する史料はない。しかし、現存する本堂、三重塔は鎌倉時代の本格的な建築であり、この頃にはかなりの規模を有していたものと思われる。 元亀2年(1571年)、比叡山延暦寺の焼き討ちを行った織田信長は、近江国にある比叡山傘下の天台寺院をも焼き払うことを命じ、西明寺も信長配下の武士によって焼き討ちの運命にあった。しかし、寺僧の機知により、山門近くの房舎を激しく燃やし、全山焼失のように見せかけたため、山奥に位置する本堂や三重塔は焼失をまぬがれたという。この兵火の後は荒廃していたが、徳川家などの庇護を受けて徐々に復興し、近代に至っている。(2014.8.23訪問) |
創建年:伝平安時代初期 | 開基:伝三修上人 | 本尊:薬師如来 | 別称:・・・ | 宗派:天台宗 |