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西大寺(さいだいじ)





西大寺(さいだいじ)は、奈良県奈良市西大寺芝町にある真言律宗総本山の寺院。奈良時代に孝謙上皇(重祚して称徳天皇)の発願により、僧・常騰を開山(初代住職)として建立された。南都七大寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代に叡尊によって復興された。山号は勝宝山。現在の本尊は釈迦如来である。

宝亀11年(780年)の『西大寺資財流記帳』によれば、創建の経緯は以下のとおりである。天平宝字8年(764年)9月、孝謙上皇は恵美押勝の乱平定を祈願して金銅四天王像の造立を発願した。なお、孝謙上皇は同年10月重祚している(称徳天皇)。翌天平神護元年(765年)、前述の四天王像が造立され、西大寺が創建された。この四天王像4体は西大寺四王堂に今も安置されるが、各像が足元に踏みつける邪鬼だけが創建当時のもので、像本体は後世の作に代わっている

西大寺の創建当時は僧・道鏡が中央政界で大きな力をもっており、西大寺の建立にあたっても道鏡の思想的影響が大きかったものと推定されている。護国のために四天王像を安置するのは『金光明最勝王経』に基づくものである。

「西大寺」の寺名は言うまでもなく、大仏で有名な「東大寺」に対するもので、奈良時代には薬師金堂、弥勒金堂、四王堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持ち、南都七大寺の1つに数えられる大寺院であった。前述の『資財流記帳』の記載や、元禄11年(1698年)作成の伽藍絵図から復元される伽藍配置は以下のようなものである。寺域の中心には薬師金堂が建ち、その背後、通常の寺院では講堂のある位置には弥勒金堂が建っていた。これら中心伽藍の東には小塔院、その北に食堂院(じきどういん)、中心伽藍の西には正倉院、その北に政所院(まんどころいん)があった。中心伽藍の前方(南)には東西2基の五重塔が建ち、これらの東に四王院、西に十一面堂院があり、四王院の南に東南角院(すみいん)、十一面堂院の南に西南角院があった。塔は八角形で計画されたが、途中で四角形に改められたという。

『資財流記帳』によれば、これらの諸堂には、密教系の像を含む、多数の仏像が安置され、多くの鏡で荘厳されていた。薬師金堂には、薬師三尊像を中心に計21体の仏像が安置され、中には密教系の孔雀明王像も含まれていた。弥勒金堂には計77体もの仏像が安置され、弥勒仏の兜率天浄土を表現していた。

しかし、寺は平安時代に入って衰退し、火災や台風で多くの堂塔が失われ、興福寺の支配下に入っていた。

西大寺の中興の祖となったのは鎌倉時代の僧・叡尊(興正菩薩、建仁元年(1201年) - 正応3年(1290年))である。叡尊は建仁元年(1201年)、大和国添上郡(現・大和郡山市)に生まれた。11歳の時から醍醐寺、高野山などで修行し、文暦2年(1235年)、35歳の時に初めて西大寺に住した。その後一時海龍王寺(奈良市法華寺町)に住した後、嘉禎4年(1238年)西大寺に戻り、90歳で没するまで50年以上、荒廃していた西大寺の復興に尽くした。叡尊は、当時の日本仏教の腐敗・堕落した状況を憂い、戒律の復興に努めた。また、貧者、病者などの救済に奔走し、今日で言う社会福祉事業にも力を尽くした。西大寺に現存する仏像、工芸品などには本尊釈迦如来像をはじめ、叡尊の時代に制作されたものが多い。その後も忍性などの高僧を輩出するとともに、荒廃した諸国の国分寺の再興に尽力し、南北朝時代の明徳2年(1391年)に出された『西大寺末寺帳』には8か国、同時代のその他の史料から更に十数か国の国分寺が西大寺の末寺であったと推定されている(なお、現存の国分寺のうち、西大寺と関係を持つのは旧伊予国分寺のみであるが、他にも複数の国分寺が真言宗各派に属している)。

西大寺は室町時代の文亀2年(1502年)の火災で大きな被害を受け、現在の伽藍はすべて江戸時代以降の再建である。なお、西大寺は1895年(明治28年)に真言宗から独立し、真言律宗を名乗っている。真言律宗に属する寺院は、大本山宝山寺(奈良県生駒市)のほか、京都・浄瑠璃寺、奈良・海龍王寺、奈良・不退寺、鎌倉・極楽寺、横浜・称名寺などがある。(2013.7.8参詣)


 創建年:765年 開基:常騰、孝謙上皇   本尊:釈迦如来  別称:・・・  宗派:真言律宗


 
 
 
 
 
境内内部にあった伽藍配置図、これを見ながら各写真を見て下さい。
 
駅を降りて南西方面の角に西大寺の表示がありました。

いつものように今回も裏門から入ってしまった、北門って書いてあるんだけど見えないですね。

 
北門を入ってすぐ右に本坊がありました、この中へも入ってみました。
 
 
 
 

 
本坊を入ってすぐ左の建物。これは民家に近いか?

 

その奥にあった建物。これは歴史を感じさせるが実態は分からず。

 

大黒天、現在は写真にもあるように濡れ縁の修理中であった。

 

東塔跡、奈良時代には東西両塔が建てられた。創建当初のものは平安時代に焼失し、東塔は藤原後期に再建されたが室町時代(1502年)に焼失、壇下の八角の小石列は八角七重塔の基壇の規模を示す。

 
 
 
 

本堂(重文)、中世に建てられ度重なる火災や兵火によって焼失した。現在の建物は1789~1802年それまでの仮堂を廃し、文化初年に完成したものである。桁行7間(24.395m)梁行5間(16.825m)寄棟造り・本瓦葺、土壁を使わない総板壁の珍しい建物である。


 鐘楼非常に古く見えたが幕末もしくわ明治初期に摂津の国、多田院から移されたようで、多田院は1661~1673年に復興されたことが確認されており、この際に移されたと考えられるとのこと。
 
光明殿、これに関する説明は不足しておりよく分からなかった。

 愛染堂、もと京都の近衛政所御殿を1762年に移築した南北十一間、東西八間の寝殿造りの仏堂。中央にに本尊愛染明王坐像が祀られているとのこと。
 
 
 
 

 何故か愛染堂の近くにこの像が良く分からないが新しい。

大師堂、これも説明不足で良く分からなかった。

境内に2箇所池があった、2箇所とも祠が祀ってあった。


西大寺には南門が2箇所ありその一
つ。
 
 
 
 
 
先ほどの南門、奥に本堂が真正面に見える。
 
本堂方面に向かう途中に振り向き先ほどの南門を撮る。
 
本堂に入るところ、入り口でパンフレットを貰い、又大茶盛式に来てくださいとのこと。大茶盛式は毎年1/15,4月第二日曜と前日の土曜日、10月の第二日曜日。
 
護摩堂、説明用の立て看板があったが風雨にさらされて読めなかった。
 
 
 
 

 聚宝館、昭和36年竣工、国宝、金銅宝塔や吉祥天立像、行基菩薩坐像などの重要文化財を収蔵。

四王金堂、創建期の由緒を伝える唯一の堂。しかし建物は再三焼失し現堂は1674年の再建、東西9間、南北7間の質素な重層建築。


 もう一箇所の南門、ここから真正面に四王金堂が。
 
西大寺東門、ここから入るべきだった。
 

西大寺石落神社本殿。この場所は西大寺境内の飛び地で、神社は西大寺の鎮守社として1242年叡尊によって祀られたのが始まり。東門のすぐ前にあった。



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近鉄大和西大寺駅南口降りてすぐ

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