霊山寺(りょうせんじ) |
奈良市の西郊、富雄地区にあり、富雄川の支流湯屋川をはさんで南北両側の丘陵上に鎌倉時代建立の本堂(国宝)、三重塔(重文)などの建物が建つ。これら古建築とともに、全面金箔貼りの黄金殿、バラ園、温泉、ゴルフ練習場、大霊園などの設備を有する異色の寺院である。 伝承によれば、小野妹子の子である小野富人は、壬申の乱(672年)に加担したかどで右大臣の地位を辞し、今の霊山寺境内にあたる登美山に閑居して登美仙人あるいは鼻高仙人(びこうせんにん)と称したという。鼻高仙人となった小野富人は、登美山に薬師如来を祀り、病人を癒すために薬草を栽培し薬湯を設けた。これは、彼が熊野本宮大社に参篭した際に出現した薬師如来(熊野速玉大神の本地仏)のお告げにしたがったものであった。 神亀5年(728年)のこと、聖武天皇の皇女(のちの孝謙天皇)は、病に苦しんでいた。ある晩、天皇の夢枕に鼻高仙人が現われ、登美山の薬師如来の霊験を説いたので、僧・行基を登美山につかわして祈願させたところ、皇女の病が平癒した。天平6年(734年)、聖武天皇は行基に命じて霊山寺を建立させた。2年後の天平8年(736年)に来日したインド僧・菩提僊那(東大寺大仏の開眼供養の導師を務めた)は、登美山の地勢が故郷インドの霊鷲山(りょうじゅせん)に似ていることから霊山寺と名付け、聖武天皇からは「鼻高霊山寺」の額を賜ったという。 以上のように、寺伝では聖武天皇の勅願により行基が開いたとされているが、このことは正史には見えず、開創の時期や事情、中世以前の歴史についてはあまり明らかではない。しかし、現存する本堂、三重塔は鎌倉時代の本格的な建築であり、本尊薬師三尊像は平安時代後期にさかのぼるものなので、古くから栄えた寺院であったと思われる。兵火に遭わなかったため、建物、仏像などに古いものが残り、近世には徳川幕府の朱印寺として一定の規模を維持していたが、明治の廃仏毀釈以後は衰退した。宗派は中世には興福寺の末寺であり、のち高野山真言宗に属したが、昭和26年(1951年)に独立して霊山寺真言宗を称している。昭和期以降は本尊薬師如来とともに、奥の院(主要伽藍の西方約1キロの山中にある)の弁才天が信仰の中心となっており、昭和10年(1935年)に奥の院の弁才天を勧請して大弁才天堂を建立したのをはじめとして、「弁才天のお告げ」によって造ったとされる多くの堂や施設が山内に建てられている。 |
創建年:736年 | 開基:行基・菩提僊那 | 本尊:・・・ | 別称:・・・ | 宗派:霊山寺真言 |
阪奈道路、三碓インターを降りた所に大きな表示板が、近鉄富雄駅からは徒歩10分強のところに建つ。 |
こちらが霊山寺の石碑、その左には右の写真の石碑が建つ。 |
何故かお寺なのにあちこちに鳥居が、これは弘法大師がお祀りになった弁財天がおられるのでとのこと。従ってこの石碑も納得 | 幸せを呼ぶ鐘ということで何人かのひとが突かれてました。境内の外にありました。 |
富雄駅から歩いて行きました(約30分)、寺に近づくにつれゴルフ練習場や鳥居が見え中には他に風呂とか食事どころもあるようです。 |
下を流れる富雄川をまたぐ朱塗りの橋を渡り境内へ。 |
拝観の際に貰った配置図、多くの塔や建物があります。 |
こちらから境内へ、入り口にはこんなに大きな鳥居が。 |
霊山寺バラ園、200種2000株あるそうですがピークは過ぎてました。 |
本堂、奥の院方面に向かう。境内は綺麗に整備されている。 |
拡大して見て下さい、薬師湯って書いてます。お風呂です。 |
八体仏霊場、十二支と星座を組み合わせて八体の仏様が守護下さるとの事。 |
行基菩薩像、創建者として本堂へ向かう道筋の右にありました。 |
三重塔(重文)鎌倉時代中期の建立で内部は極彩色の壁面になっているそうです。 |
開山大師堂、歴代の徳川将軍の位牌が祀られているそうです。 |
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行者堂、三重塔の奥にあり9月15日には紫燈護摩法要が行われるとか。 |
本堂(国宝)鎌倉時代の代表的な建物で、1283年に改築され、昭和17年に解体修理が行われたとか。 |
本堂を南西方面から見た。その重みが伝わってきそうです。 |
奥の院へ行こうとしたら左手に紫陽花が、花はここにしかなかった。 |
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六福神像、インド、中国、日本の福の神グループを守っているとか。 |
左が黄金殿、右が白金殿、外はステンレス冊子のガラスで覆われていたが中は確かに金と銀でした。 |
本堂の近くから奥の院へ1kmしかなかったが暑くてチョットした坂道も疲れた。 |
この鳥居までは上り坂、ここから下り坂に向かう。 |
奥の院、、弘法大師が霊験偉大と体得された大弁財天と七福神が祀ってあるそうですが1km歩いたわりには中も見れず残念でした。 |
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