妙心寺(みょうしんじ) |
妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園妙心寺町にある臨済宗妙心寺派の大本山の寺院。山号は正法山。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)。 日本にある臨済宗寺院約5,650か寺のうち、約3,350か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。 京都の禅寺は、五山十刹(ござんじっさつ)に代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあった。前者を「禅林」または「叢林(そうりん)」、後者を「林下(りんか)」といった。妙心寺は、大徳寺(龍寶山大德禪寺)とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。 平安京の北西部を占める風光明媚な妙心寺の地には、花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。花園上皇は、建武2年(1335年)落飾して法皇となり、花園御所(離宮萩原殿)を禅寺に改めることを発願した。法皇の禅の上での師は大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)であった。宗峰は建武4年(1337年)12月没するが、臨終間近の宗峰に花園法皇が「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねたところ、宗峰は高弟の関山慧玄を推挙した。その頃、美濃国(岐阜県)の伊深(美濃加茂市伊深町)で修行に明け暮れていた関山は、都に戻ることを渋っていたが、師僧・宗峰の遺命と花園法皇の院宣があっては辞去するわけにはいかず、暦応5年/康永元年(1342年)、妙心寺の開山となった。なお、「正法山妙心寺」の山号寺号は宗峰が命名したもので、釈尊が嗣法の弟子・摩訶迦葉(まかかしょう)に向かって述べた「正法眼蔵涅槃妙心」(「最高の悟り」というほどの意味)という句から取ったものである。 妙心寺6世住持の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)は、足利氏に反旗をひるがえした大内義弘と関係が深かったため、将軍足利義満の怒りを買った。応永6年(1399年)、義満は妙心寺の寺領を没収して子である青蓮院の義円(後の足利義教)に与え、拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮院に幽閉の身となった。さらに義満は、没収した他の寺領と妙心寺自体の建物と境内地を弟である南禅寺塔頭・徳雲庵塔主の廷用宗器に与えた。廷用は妙心寺の寺号を「龍雲庵」に改め、徳雲庵の末寺とした。こうして妙心寺は一時中絶することとなった。 妙心寺が復活するのは永享4年(1432年)のことである。同年、廷用は微笑塔(開山関山慧玄の塔所)の敷地をその頃南禅寺にいた根外宗利に与えた。関山慧玄の流れを汲んでいた根外は、尾張国犬山の青龍山瑞泉寺から日峰宗舜を迎えて妙心寺を再興させた。このため日峰は妙心寺中興の祖とされている。 妙心寺は応仁の乱(1467年 - 1477年)で伽藍を焼失したが六祖雪江宗深の尽力により復興する。雪江宗深は住持の期間を3年と定め、その4人の法嗣、景川宗隆、悟渓宗頓、特芳禅傑および東陽英朝は、師亡き後交代で妙心寺の住持を務めてそれぞれ妙心寺四派の龍泉派、東海派、霊雲派及び聖澤派の祖となった。各々の派は現在まで続いており、妙心寺派の寺院は全て四派のいずれかに属している。永正6年(1509年)、後柏原天皇から紫衣勅許の綸旨を得る。この勅許状には大徳寺と位が等しい旨が記されており、これをもって妙心寺は大徳寺から独立したとみなされている。12月には悟渓宗頓に帰依していた利貞尼が仁和寺領の土地を購入して妙心寺に寄進し、境内が拡張された。利貞尼は関白一条兼良女で美濃国加納城主斎藤妙純の室である。永禄年間(1558年 - 1570年)希菴玄密により、住持の期間が3年から1年に改められる。天正6年(1578年)には南化玄興や快川紹喜、虎哉宗乙ら三十六師連名で妙心寺壁書(規則)を定めた。また妙心寺住職の妹の慈徳院が織田信長の嫡男・織田信忠の乳母となり、その後に信長の側室になり、六女の三の丸殿(豊臣秀吉の側室)を儲けた。本能寺の変で信長が討たれると、信長の妹のお市の方が信長の百箇日法要を妙心寺で執り行った。 その後の妙心寺は戦国武将などの有力者の援護を得て、近世には大いに栄えた。関ヶ原の戦いで敗れた石田三成の嫡男の石田重家は妙心寺に入って出家し、命を助けられた。江戸時代に隠元隆琦が訪日すると、龍渓性潜らが臨済宗の正統を継ぐ師の到来として妙心寺へ迎えようとしたが、当時の重鎮愚堂東寔によってその案は峻拒された。1871年(明治4年)に管長職を設け、名古屋市徳源寺の鰲巓道契が妙心寺派初代管長となっている。 (2024.11.6参詣) |
創建年:1342年 | 開基:花園法皇 |
本尊:釈迦如来 | 別称:・・・ | 宗派:臨済宗妙心寺派 |
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仏殿 | 他の諸堂より新しく、文政10年(1827年)再建。入母屋造、一重裳階付き。本尊は天正年間(1573年 - 1593年)作の釈迦如来で、脇侍は摩訶迦葉と阿難尊者。祝聖のほか、降誕会、涅槃会、成道会などが行われる。本尊の後方には達磨大師、百丈禅師や臨済禅師を祀る祖師堂、道教の神を祀る土師堂、利貞尼、見性院、明智光秀などの功労者の位牌を祀る祠堂がある。 | |
法堂 | 明暦3年(1657年)再建。入母屋造、一重裳階付き。天井には完成するまでに8年もかかった狩野探幽筆の雲龍図が描かれている。また、ケヤキの柱は富士山麓より運ばれてきたものである。開山忌、達磨忌、花園天皇忌のほか、開堂式、年朝上堂、入制上堂、解制上堂が挙げられる。堂内には国宝の梵鐘「黄鐘調の鐘」が展示されている。 | |
浴室 | 明暦2年(1656年)再建。元々は天正15年(1587年)に明智光秀の叔父である大嶺院の密宗により光秀の菩提を弔うために建立されたもの。そのため「明智風呂」の別名がある。守護として跋陀婆羅菩薩が祀られている。 | |
三門 | 慶長4年(1599年)再建。五間三戸(正面の柱間5間のうち中央3間が通路)の二重門(2階建門)である。上層には円通大士(観音)と十六羅漢像を安置する。6月18日に懺法会、7月15日に施餓鬼会が修法される。 | |
北門 | 慶長15年(1610年)建立。 北総門とも。切妻造、本瓦葺きの薬医門で南門とほぼ同じ構造である。 |
京福電鉄北野線「妙心寺駅」下車すぐ