仁王門(0) - 287m - 由岐神社(50) - 791m - 本殿金堂(160)
括弧内の数字は仁王門の標高を基準とした標高差(単位m)
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①仁王門 | 1891年(明治24年)焼失し、1911年(明治44年)再建された。山門駅から多宝塔駅までのケーブルカーは1957年(昭和32年)に開通している。標高250m。 | |
②霊宝殿 | 本殿裏にある。1階は鞍馬山自然博物苑で、鞍馬山の動植物に関する展示がある。2階は寺宝展示室と与謝野鉄幹・与謝野晶子の遺品等を展示した、与謝野記念室がある(鞍馬弘教を開宗した信楽香雲は与謝野門下の歌人であった)。3階は仏像奉安室で、国宝の木造毘沙門天立像、木造吉祥天立像、木造善膩師童子(ぜんにしどうじ)立像の三尊像をはじめとする文化財が展示されている。鞍馬寺の本尊はこの毘沙門天の三尊像であったとする説や、同じく霊宝館に安置されている平安時代後期の重要文化財兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)の姿と近いものでなかったかとする説もある。平安時代中期以降の末法思想から生み出された経塚遺跡からの発掘品も見ることができる。 |
鞍馬寺(くらまでら) |
鞍馬寺(くらまでら)は、京都府京都市左京区鞍馬本町にある寺。1949年まで天台宗に属したが以降独立して鞍馬弘教総本山となっている。山号は鞍馬山。開基(創立者)は鑑真の高弟鑑禎(がんてい)とされている。本尊は寺では「尊天」と称している。「尊天」とは毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体の本尊であるという。 京都盆地の北に位置し、豊かな自然環境を残す鞍馬山の南斜面に位置する。鞍馬は牛若丸(源義経)が修行をした地として著名であり、能の『鞍馬天狗』でも知られる。新西国十九番札所である。なお、鞍馬寺への輸送機関としてケーブルカー(鞍馬山鋼索鉄道)を運営しており、宗教法人としては唯一の鉄道事業者ともなっている。 『今昔物語集』『扶桑略記』など諸書には別の伝承が見られる。それによれば、延暦15年(796年)、藤原南家の出身で造東寺長官を務めた藤原伊勢人は、自分の個人的に信仰する観音を祀る寺を建てたいと考えていた。伊勢人は、ある夜見た霊夢のお告げにしたがい、白馬の後を追って鞍馬山に着くと、そこには毘沙門天を祀る小堂(上述の鑑禎が建てたもの?)があった。「自分は観音を信仰しているのに、ここに祀られているのは毘沙門天ではないか」と伊勢人はいぶかしがった。ところが、その晩の夢に1人の童子が現われ、「観音も毘沙門天も名前が違うだけで、実はもともと1つのものなのだ」と告げた。こうして伊勢人は千手観音の像をつくって、毘沙門天とともに安置し、鞍馬寺を創建したという。この伝承は『日本後紀』延暦15年(796年)の条に東寺の造営の任に当たっていた藤原伊勢人の夢に現在の鞍馬寺からほど近い貴船神社の神が現れ鞍馬寺を建立するよう託宣したと記されていることからほぼ史実であると考えられる。 9世紀末の寛平年間(889年 - 897年)東寺の僧・峯延(ぶえん)が入寺したころから、鞍馬寺は真言宗寺院となるが、12世紀には天台宗に改宗し、以後の鞍馬寺は長く青蓮院の支配下にあった。寛治5年(1091年)には白河上皇が参詣、承徳3年(1099年)には関白藤原師通が参詣するなど、平安時代後期には広く信仰を集めていたようである。『枕草子』は「近うて遠きもの」の例として鞍馬寺の九十九(つづら)折りの参道を挙げている。 鞍馬寺は大治元年(1126年)の火災をはじめとして、たびたび焼失している。江戸時代の文化9年(1812年)には一山炎上する大火災があり、近代に入って1945年(昭和20年)にも本殿などが焼失している。このため、堂宇はいずれも新しいものだが、仏像などの文化財は豊富に伝えられている。 昭和期の住職・信楽香雲(しがらきこううん)は、1947年に鞍馬弘教を開宗。1949年には天台宗から独立して鞍馬弘教総本山となっている。 京都の奥にある鞍馬山は山岳信仰、山伏による密教も盛んであった。そのため山の精霊である天狗もまた鞍馬に住むと言われる。鞍馬に住む大天狗は僧正坊と呼ばれる最高位のものでありまた鞍馬山は天狗にとって最高位の山のひとつであるとされる。(2015.11.20訪問) |
創建年:伝・770年 | 開基:伝・鑑禎 | 本尊:尊天 | 別称:・・・ | 宗派:鞍馬弘教 |