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①阿弥陀堂  
 

大正4年(1915)再建。中央に阿弥陀如来像、左右に七高僧、聖徳太子の御影を安置しています。

②御影堂  

明治45年(1912)再建。幅33m、奥行き41m、高さ28m。中央に親鸞聖人のご真影を安置しています。

③経蔵  
 

嘉永元年(1848)建立。みかげ石の欄干を巡らしてあり、中には経典が納められています。

④表対面所
 
 

御影堂の西側に位置し、報恩講にはこの場所でお斎がいただけますとのこと。


JR京都駅より市バス9番七条堀川下車
JR京都駅より徒歩約10分



                                                    

興正寺(こうしょうじ)




かつて西本願寺の脇門跡であったが、1876年(明治9年)に真宗興正派として独立した際に、同派の本山となる。住職は門主の華園家。本山だけあって大伽藍であるが、壮大な西本願寺の南に隣接しているため、一見西本願寺の伽藍の一部と見まがう。また西本願寺の御影堂があまりに大きいため、興正寺の伽藍が比較的小さく感じられるが、実際には堂々とした規模である。

興正寺の寺伝では、第7世了源によって事実上創建されたとみなされるが、実際には、京都の五条西洞院にあった親鸞の住坊を元亨元年(1321年)頃に、了源が移転するなどして寺院として開いたのではないかと言われている。
嘉暦3年(1328年)前後、了源は、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都に移すべく寺基を洛東の汁谷(渋谷)(しるたに・しぶたに、現在の京都国立博物館の辺り)に移し、光明本尊・絵系図・交名帳を用いて西日本一帯の布教活動に力を入れた。この頃「阿弥陀佛光寺」の勅号を後醍醐天皇より賜る。その後、佛光寺は益々隆盛となったが、それとともに天台宗・延暦寺の弾圧が強まった。第13世光教の時には応仁の乱に巻込まれ諸堂を焼失。さらに文明13年(1481年)には、14世を継ぐべき経豪(後の蓮教)が本願寺の蓮如に帰依し、山科西野に再び「興正寺」として創建、有力末寺と共に当時山科にあった本願寺に帰参した。
天正19年(1591年)第17世顕尊の時に、豊臣秀吉による都市計画の一環で、本願寺と共に寺基を再び洛中の七条堀川に移す。(2013.9.6訪問)


創建年:1212年 開基:親鸞(伝承)了源 本尊:阿弥陀如来 別称:・ 宗派:真宗興正派
阿弥陀堂門
③経蔵
①阿弥陀堂
②御影堂
④表対面所
三門
阿弥陀堂から