YOU TUBEでご覧ください




 



①本堂   

入母屋造、檜皮葺の和様仏堂で、中世天台仏堂の代表作として国宝に指定されている。 須弥壇の金具に弘安11年(1288年)の銘があるが、本堂の建築様式・技法は鎌倉時代まではさかのぼらず、南北朝時代の建立とみられ、前述の金具は前身堂のものとみられる。1988年の屋根葺替え修理の際の調査の所見でも、須弥壇の年代は金具銘の1288年まではさかのぼらないとしている。様式は和様を基調とし、正面柱間をすべて蔀戸にするのは和様の特色であるが、内部の組物の拳鼻などに禅宗様の要素がみられ、拳鼻の彫刻の様式も、本建物を南北朝時代の建立と判定する要素の一つである。本尊を安置する厨子は建築的細部をもつもので、入母屋造、檜皮葺きとする。この厨子は建物と同時期の作とみられ、本堂の「附」(つけたり)として国宝に指定されている。本尊の聖観音立像は、他の多くの天台寺院の本尊と同様、秘仏である。この像は一見、未完成像かと思われるほど、体部の彫りが荒々しく、平安時代後期の鉈彫像の系譜に属するものとみられる。


②二天門 
 
様式上、室町時代前期の建築。寺伝では、元来は楼門(2階建て門)だったが、2階部分が失われたものという。組物の形式などからみて、伝承どおり楼門の上層部分が失われたものか、または楼門として建立する予定だったものが未完成に終わったものとみられる。屋根は入母屋造、檜皮葺とするが、屋根材は江戸時代のもので、当初からこの形式であったかどうかは不明である。 
③三重塔 
 
本堂の左(北)の一段高い場所に建つ。寺伝では鎌倉時代の寛元4年(1246年)の建立というが、様式的には南北朝時代の建築とみられる。織田信長の焼き討ちはまぬがれたものの、近世以降は荒廃し、塔の初層と二重目の軸部(柱、梁などの根幹材)と組物がかろうじて残るだけで、三重目はなくなっていた。現状の塔は1975年から1978年にかけて修理復元されたもので、欠失箇所は同じ滋賀県内の西明寺三重塔などを参考に復元したものである。
④ 明寿院
 
 金剛輪寺の本坊。桃山時代から江戸時代にかけて整備された池泉回遊式庭園がある。1977年の火災で書院、玄関、庫裏が焼失し、現在の建物はその後に再建されたものである。他に上記の火災をまぬがれた護摩堂(正徳元年・1711年建)と茶室水雲閣(安政年間・1854-1860年)がある。







西谷堂
赤門
地蔵堂
名勝庭園
白門
茶室
①本堂
③三重塔
金剛輪寺(こんごうりんじ)




金剛輪寺(こんごうりんじ)は、滋賀県愛知郡愛荘町にある天台宗の寺院。山号は松峯山(しょうほうざん)。地名から松尾寺ともいう。本尊は聖観音、開基(創立者)は行基とされる。西明寺、百済寺(ひゃくさいじ)とともに湖東三山の1つに数えられる。

琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する金剛輪寺は、寺伝によれば奈良時代の僧・行基の開創とされ、創建は天平9年(737年)または天平13年(741年)と伝える。金剛輪寺の所在地は、昭和の市町村合併以前は秦川村といったことから、渡来系氏族の秦氏とも何らかの関係があったとする見方もある。

その後、平安時代前期の嘉承年間(848 - 851年)には天台宗の僧・円仁(慈覚大師)によって再興されたと伝え、寺では円仁を中興の祖としている。以上の創建伝承を裏付ける確かな史料はないが、伝来する仏像の制作年代などから、平安時代後期には寺が存在したとみられる。平安時代から中世にかけての金剛輪寺の歴史は必ずしも明らかでないが、寺内には平安時代後期から鎌倉時代の仏像が多く残る。本堂の須弥壇金具には弘安11年(1288年)の銘があるが、これは前身本堂のもので、現存する本堂は南北朝時代の再興とみられる。

天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。当寺の本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。2014.6.23訪問)


創建年:伝741年 開基:伝行基、聖武天皇 本尊:聖観世音菩薩 別称:・・・ 宗派:天台宗
惣門(黒門)
④明寿院
護摩堂
②二天門