①金堂 | 南北朝時代の建立。建築様式に、伝統的な和様と禅宗様の要素が混在している、いわゆる「折衷様」建築の代表作とされる。 |
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②如意輪観音坐像 (ポスターより) |
観心寺の本尊で、金堂内陣の厨子内に安置される。秘仏で、毎年4月17・18日の2日間のみ開扉される。平安時代前期・9世紀の作。像高108.8cm。六臂(手が6本)の密教彫像。長らく秘仏であったため、保存がよく、表面の彩色や文様もよく残っている。右脚を立て膝とし、6本の手のち、右第一手は頬に当てて思惟相とし、第二手は胸前で如意宝珠を捧持し、第三手は垂下して数珠を持つ。左の第一手はまっすぐ下方に伸ばし、第二手は掌を正面に向けて胸の高さで蓮茎を持ち、第三手は伸ばした指先で法輪を支える。カヤ材の一木造で、頭・体の主要部を一材から木取りしたうえで、左膝外側部、各腕などに別材を矧ぎ付けている。各腕は臂釧(ひせん、上腕部に巻いた装飾)のあたりで矧いでいるとみられる。国宝指定名称は「木造」となっているが、乾漆技法が併用されており、各所に木屎漆(こくそうるし、麦漆に木粉などを混ぜたもの)を厚く盛り上げて、肌の柔らかい感触を表現しており、密教彫像特有の神秘性と官能性を表出する。面相部や、左肩から右腰に掛かる条帛(じょうはく)、下半身にまとった裳などの衣文は乾漆技法で成形されている。 |
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観心寺(かんしんじ) |
創建年:825または827年 | 開基:実恵 | 本尊:如意輪観音 | 別称:・ | 宗派:高野山真言宗 |
観心寺(かんしんじ)は、大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院。山号を檜尾山と称し、遺跡本山である。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は実恵である。
仏塔古寺十八尊第十三番。奥河内の観光地の一つ。 弘仁6年(815年)、空海は再度この地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、「観心寺」の寺号を与えたという。「空海が自ら刻んで」云々の話は伝承の域を出ないが、現在金堂本尊として安置される如意輪観音像は、様式的に9世紀の作品とされている。また、観心寺には奈良時代にさかのぼる金銅仏4体が伝来することから、奈良時代草創説もあながち否定はできない。 観心寺の実質的な開基とみられるのは、空海の一番弟子にあたる実恵である。『観心寺縁起資材帳』(国宝)などによると天長4年(827年)、実恵の意を受け、弟子の真紹が造営を始めている(なお、年次に関しては天長2年(825年)とする異説もある)。承和3年(836年)には石川郡東坂荘が勅によって施入されたと伝えられている。 観心寺は楠木氏の菩提寺であり、楠木正成および南朝ゆかりの寺としても知られている。正平14年(1359年)には当寺が後村上天皇の行在所となった。また、境内には後村上天皇桧尾陵がある。 境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だけが建てられた、未完成の建築である。伝承によれば、楠木正成は、建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたため、建築が中断され、そのままになっているという。討ち死にした正成の首は当寺に届けられ、首塚に祀られている。 室町時代以降は、管領畠山氏や豊臣氏の庇護を受けて栄えた。(2016.4.19参詣) |