供養堂
護摩堂





太子堂
観音正寺(かんのんしょうじ)
本 堂

観音正寺(かんのんしょうじ)は、滋賀県近江八幡市安土町石寺にある仏教寺院。宗旨は天台宗系の単立。山号は繖山(きぬがささん)。本尊は千手観音。西国三十三所第32番札所である。

琵琶湖の東岸、標高433メートルの繖山(きぬがさやま)の山頂近くに位置する。伝承によれば、推古天皇13年(605年)、聖徳太子がこの地を訪れ、自刻の千手観音を祀ったのに始まるという。聖徳太子はこの地を訪れた際に出会った「人魚」の願いにより一寺を建立したという。その人魚は、前世が漁師であり、殺生を業としていたために人魚に生まれ変わり苦しんでいたという。寺にはその人魚のミイラと称するものが伝えられていたが、平成5年(1993年)火災で焼失した。実際に創建時期については不明であるが、少なくても11世紀(平安時代)には既に存在していた。また、元弘3年(1333年)に足利高氏に攻められた六波羅探題北条仲時が後伏見・花園両院及び光厳天皇を連れて東国に下ろうとした際に両院や天皇の宿舎に充てられたとする伝承がある。その場所は現本堂の地であり、禁裏屋敷と呼ばれていたという。

観音正寺が位置する繖山には、鎌倉時代以来近江国南半部を支配する佐々木六角氏の居城である観音寺城があるが、六角高頼が観音寺城を居城として以来、寺は六角氏の庇護を得て大いに栄えた。寺伝によると最盛期には72坊3院の子院を数えたとされる。しかし、六角定頼が当主の時や永禄年間(1558年~1570年)に六角義賢が観音寺城の拡張工事を行った際に、山上の寺域は次第に観音寺城に取り込まれることとなり、遂に寺は麓の観音谷に移ることとなった。この移転以前の境内としては、本谷道を参道とし、伝後藤邸跡地にある石段を真っすぐに上がり、現在境内となっているところ(後に拡張のため埋められた)をも超えて伝三井邸(西側の方の)跡地に至り、山の頂上に近いそこにかつての本堂である観音堂があったとする見解がある

麓に移ったばかりの寺であったが、永禄11年(1568年)9月12日の観音寺城の戦いで織田信長に敗北した六角義賢・義治父子が観音寺城を捨てて甲賀郡に退却した時の混乱で焼失した。しかし、慶長2年(1597年)には再び山上に伽藍を建てることとなり、かつての参道を埋めて境内地を確保し、山の中腹に観音正寺を再興させ、現在庫裏が建っているところに観音堂を完成させた。

江戸時代に入り、西国三十三所の霊場として栄えた観音正寺であったが、明治13年(1880年)に観音堂を建て替えることとし、観音堂を滋賀県犬上郡甲良町にある念称寺に本堂として移築した。そして明治15年(1882年)、彦根城の欅御殿を本堂として貰い受けて境内に移築した。

しかし平成5年(1993年)、本堂が失火で焼失してしまう。交通の不便な山中にある寺院のため、消火活動もままならず、重要文化財に指定されていた明応6年(1497年)の銘がある本尊千手観音立像も焼失した。現在ある木造入母屋造の本堂は平成16年(2004年)に再建されたものである。新たに造立された本尊千手観音坐像は仏師松本明慶の作。旧本尊が1メートル足らずの立像であったのに対し、像高3.56メートル、光背を含めた総高6.3メートルの巨大な坐像である。像はインドから輸入した23トンもの白檀を素材に作られている。白檀は輸出禁制品であったが、観音正寺の住職が、20数回インドを訪れ、たび重なる交渉の後、特例措置として日本への輸出が認められたものである。 (2017.11.22参詣)




JR琵琶湖線(東海道本線)能登川駅から、近江鉄道バス八日市駅行にて、観音寺口下車徒歩50分(山道)
JR琵琶湖線(東海道本線)安土駅から徒歩90分(途中より山道)
本堂 
 

2004年再建。以前は彦根城欅御殿を移し本堂としていたが1993年に焼失した
 




書 院
庫 裡
仁王像
鐘 楼
創建年:伝・推古天皇13年(605年) 開基:(伝)聖徳太子 本尊:千手観音 別称:・ 宗派:天台宗系単立
六角堂
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