境内図は看板より


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浄心院

①本堂   
室町時代。入母屋造、本瓦葺き。桁行(正面)7間、梁間(側面)6間(「間」は長さの単位ではなく柱間の数を意味する)。堂内の宮殿(くうでん、厨子)の棟札(むなふだ)銘から応永4年(1397年)の建築とわかる。和様に禅宗様を加味した折衷様建築の代表作で、桟唐戸(縦横に桟を組んだ扉)を多用する点が特色である。内部の宮殿には秘仏の薬師三尊像と二天像(各重要文化財)を安置する
②太子堂   

平安時代。本堂の手前右方に建つ。堂内に壁画の聖徳太子像があることから太子堂と呼ばれているが、元来は「法華堂」と称された堂で、本堂手前左方に建つ常行堂と対をなしている(「法華堂」「常行堂」という同形の堂を並べて建てるのは天台宗特有の伽藍配置で、延暦寺、日光の輪王寺などに例がある)。屋根は宝形造(四角錐形の屋根)、檜皮葺き。桁行(正面)、梁間(側面)とも3間の主屋の前面に梁間1間の孫庇(礼堂)を付した形式になり、側面から見ると、主屋と孫庇の境で軒先の線が折れ曲がる「縋破風」(すがるはふ)の形になる。屋根板の鎌倉時代の墨書から天永3年(1112年)の建築と分かる。堂内には本尊釈迦三尊像(重文)を安置する。

建築とともに、堂内の壁画も平安時代絵画の稀少な遺品として重要である。東側壁面に描かれた聖徳太子像は、中世から厨子で覆われ、秘仏扱いとされている(1977年に重要文化財に指定されたが、写真は公開されていない)。来迎壁(本尊背後の壁)の表裏には九品来迎図と仏涅槃図が描かれているが、黒ずんでいて肉眼では図柄を確認できず、赤外線写真で全貌が確認
された。


③常光堂 
 
平安時代 
④鐘楼 
 
室町時代、応永14年(1407年) 
⑤行者堂 
 
室町時代、応永13年(1406年) 
⑥護摩堂 
 
室町時代、永禄6年(1563年) 



JR加古川駅 から加古川市ゾーンバス・別府ルートで8分、「鶴林寺」下車、徒歩すぐ
JR加古川駅 から加古川市ゾーンバス・別府ルートおよび東加古川ルートで7分、「北在家東口」下車、徒歩5分(本数多し)
山陽電鉄本線尾上の松駅下車、徒歩15分






鶴林寺(かくりんじ)


鶴林寺(かくりんじ)は兵庫県加古川市にある仏教寺院。山号を刀田山(とたさん)と称する。宗派は天台宗、本尊は薬師如来である。

近畿地方に数多くある聖徳太子開基伝承をもつ寺院の1つで、太子建立七大寺の一つともいうが、創建の詳しい事情は不明である。平安時代建築の太子堂(国宝)をはじめ、多くの文化財を有し、「西の法隆寺」とも称されている播磨地方有数の古寺である。

境内および塔頭の周囲三方が鶴林寺公園として整備されC11形蒸気機関車なども展示され休日には親子連れの遊び場になっている。

伝承では創建は崇峻天皇2年(589年)にさかのぼり、聖徳太子が当時播磨の地にいた高麗僧・恵便(えべん)のために建立、その後養老2年(718年)身人部春則(むとべのはるのり/みとべのはるのり)なる人物が七堂伽藍を整備したというが、伝承の域を出ない。ただし、推古天皇14年(606年)、聖徳太子が法華経を講義し、その功で天皇から播磨国の水田百町を得たことは史実とされ、聖徳太子と播磨には何らかの関連があったと想像される。創建時は四天王寺聖霊院という寺号であったものを、天永3年(1112年)に鳥羽天皇によって勅願所に定められたのを期に「鶴林寺」と改めたという。

鶴林寺には、現に飛鳥時代後期(白鳳期)の銅造聖観音像があり、本堂本尊の薬師三尊像は平安時代前期・10世紀にさかのぼる古像であることから見て、かなり古い歴史をもつ寺院であることは間違いない。

戦国時代には近隣の書写山が戦火に巻き込まれたが、時の播磨姫路領主、黒田孝高の説得で信長派となり戦に巻き込まれずに今日まで古い建築物が沢山残った。 寺には官兵衛と交わした書状が沢山残っている。のちに福岡藩の大封を得た黒田家は鶴林寺にて大規模な法要を行い、礼として金銀を寄進をした。

現在も主要な堂塔だけで16棟の大伽藍を有するが、鎌倉・室町期には寺坊だけで30以上を有する規模であった。(2015.1.20訪問)


創建年:祟峻天皇2年(589年) 開基:伝・聖徳太子 本尊:薬師如来 別称:・・・ 宗派:天台宗
真光院
宝生院
⑥護摩堂
観音堂
④鐘楼
②太子堂
大門
経蔵
三重塔
①本堂
③常光堂
⑤行者堂
新薬師堂
講堂