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①五重塔 | 鎌倉時代(1214年)、裳階付、高さ(基壇上面 - 相輪上端)17.7m、初重一辺2.74m貞慶の在世中に建立が開始されたとみられ、貞慶の弟子で海住山寺を継いだ慈心上人覚真(藤原長房)が仏舎利七粒を塔に安置したとの記録があり、これが塔の完成を意味するものと解釈されている。屋外にある木造五重塔で国宝・重要文化財に指定されているものとしては、室生寺五重塔に次いで日本で二番目に小さい。この塔の特徴は初層の屋根の下に裳階(もこし)と呼ぶ庇を設ける点である。裳階をもつ五重塔としては法隆寺五重塔の例があるが、現存する平安 - 鎌倉時代の五重塔では海住山寺塔のみである。裳階には壁を造らず開放とする。塔身の初重内部には四天柱(仏壇周囲の4本の柱)はあるが、心柱はなく、心柱は初層天井の上から立っている。初重内部の四天柱の間には東西南北の4面とも両開扉を設け、厨子状の構えとするが、仏塔の内部をこのような構成にするのは珍しい。各扉の内側には天部、僧形などの仏画を彩色で描き、長押や方立にも彩色文様を施すが、いずれも剥落が著しい。日本の仏塔では、軒の出を支える組物は、肘木を3段に持ち出す三手先とするのが通例だが、本塔では各重とも二手先組物とするのも異例である。 | |
②文殊堂 | 鎌倉時代の建立。貞慶13回忌の元仁2年(1225年)に建立された「経蔵」に該当する可能性がある。 | |
③本堂 | 明治17年(1884年)建立。 |
海住山寺(かいじゅうせんじ) |
海住山寺(かいじゅうせんじ)は、京都府木津川市加茂町にある真言宗智山派の仏教寺院。かつて恭仁京があった瓶原(みかのはら)を見下ろす三上山(海住山)中腹に位置する。
山号は補陀洛山(ふだらくさん)、本尊は十一面観音。奈良時代の創建を伝え、鎌倉時代、貞慶によって中興された。国宝の五重塔で知られる。仏塔古寺十八尊第三番。 その後、保延3年(1137年)に全山焼失し、70年余の間、再建されなかったという。海住山寺の歴史が史実として確認できるのは鎌倉時代の13世紀以降であるが、現本尊の十一面観音像は様式から10世紀頃の造像とみられ、その頃には海住山寺の前身寺院の存在した可能性がある。 寺は承元2年(1208年)、貞慶によって中興され、観音寺から補陀洛山海住山寺に改められた。貞慶は解脱上人(げだつしょうにん)とも称する平安時代末期 - 鎌倉時代初期の僧で、当時勢力を増しつつあった念仏専修の浄土教を激しく批判し、戒律の復興に努めた。貞慶はもと興福寺に属したが、南都仏教の堕落と俗化を憂い、建久3年(1192年)、南山城の笠置寺に移った。その後、上述のように承元2年(1208年)に海住山寺に移り、建暦3年(1213年)に59歳で没するまで、晩年の5年ほどをこの地で過ごした。 海住山寺という寺号の由来については、『明本抄』「良算聞書」に以下のようにある。まず、「海」とは、観音の衆生を救済しようという誓願が海のように広大であることを意味し、海のような観音の誓願に安住するという意味があるとする。また、インドの仏教では観音の住処は南方海中の補陀洛山(ポータラカ山)にあるとされ、当寺を海に住する山である補陀洛山になぞらえる意味もあるという。 貞慶の没後は、その弟子の覚真が後を継いだ。覚真は俗名を藤原長房といい、参議にまで上った人物であったが、41歳にして出家し、貞慶の弟子となった。海住山寺の文書には、貞慶の一周忌にあたる建保2年(1224年)、覚真が仏舎利七粒を塔に安置したとの記録があり、これが現存する五重塔の完成を意味するものと解釈されている。 海住山寺は近世まで興福寺(法相宗本山)の支配下にあったが、明治以降は真言宗智山派に転じている。(20151.29訪問) |
創建年:735年 | 開基:伝・良弁、聖武天皇 | 本尊:十一面観音 | 別称:・・・ | 宗派:真言宗智山派 |