弁才天
釈迦堂
開山堂



JR高槻駅北口より、市バス「原大橋」行き「神峯山口」下車、東へ徒歩約1.3km。





神峯山寺(かぶさんじ)
化城院
鐘楼堂
十三重塔
観音堂
九頭龍滝
本堂
本堂 
 

仁王門よりなだらかな直線の参道を約100m上ったところにある。安永6年(1777年)に再建。上部には十六八重菊紋が見られる。堂内に3種の毘沙門天を安置する。 

開山堂 
 

現在の神峯山寺で最も高い場所にあり、役小角が伽藍を建立したとされる場所に位置する。本堂脇から急勾配の石造の階段を上る。堂内には役小角とその遣いの鬼・藍婆(らんば)、毘藍婆(びらんば)が安置されている。神峯山寺初寅会の折のみ開帳され、参拝が可能。
 
九頭龍滝 
 

境内に存在し、かつては修験者の滝行に使用されていた。神峯山寺開山の縁起で伝わる「北方の光」は、九頭龍滝の飛沫であったとされる。 

十三重塔 
 

本堂の西側奥に位置する観音堂の脇にある光仁天皇の分骨塔。さらにその奥には中興の祖である開成皇子の埋髪塔である五重塔がある。
 
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山門
回向堂





神峯山寺(かぶさんじ)は、大阪府高槻市原に位置する天台宗の仏教寺院である。山号は根本山(こんぽんざん)。日本で最初に毘沙門天が安置された霊場といわれており、本尊である毘沙門天、双身毘沙門天(そうじんびしゃもんてん)、兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)はいずれも秘仏。初夏は新緑、晩秋は紅葉の名所として知られる。新西国三十三箇所第14番、役行者霊蹟札所、神仏霊場巡拝の道第64番。

神峯山寺は高槻市の中心部より北へ約6 km、原地区という田園風景が広がる農村部山間の山寺である。行政区は大阪府であるが、地理的には京都盆地の西側、西山連山から続く最西端に位置する。敷地約100haのほとんどは山林で覆われ、一帯を総称して神峯山といい、都市近郊の貴重な原生林が現存。野鳥や草花などが多数確認できることから参拝者のほかにもハイカーやバードウォッチャーらの訪問も多い。

また、開山の祖とされる役小角(役行者)、中興の祖である開成皇子の像が境内に安置され、古来の皇室との緊密な関係は本堂の十六八重菊紋などで確認できる。また、かつて七高山と称された修験霊場の一角であり、修験者が使用した修行の道や滝、葛城山遥拝所を示す石標などが境内の各所に点在する。神峯山の参道入口には石造の鳥居が立ち、仁王門前には狛犬があるなど神仏混淆の風土が現在も見られる。

「神峯山寺秘密縁起」によれば、文武天皇元年(697年)に役小角が葛城山(金剛山)で修行をしていた時、北方の山から黄金の光が発せられて霊感を受け、神峯山寺に位置する場所にやってきた。そこで天童(金比羅飯綱大権現)と出会い、天童の霊木で4体の毘沙門天が刻まれ、役小角は伽藍を建立し毘沙門天を祀ったことが起源とされている。

さらに縁起によれば、刻まれた残り3体の毘沙門天は天高く飛散し、1体はかつて神峯山寺奥之院「霊雲院」であった北山本山寺に、1体は京都市左京区の鞍馬寺に、1体は奈良県生駒郡平群町の信貴山に安置されたと伝わっている。これら寺院の本尊は現在も毘沙門天であるが、この逸話はあくまで神峯山寺の縁起によるものであり関連は定かではない。

開山以後、神峯山寺は修験霊場として多くの修験者を迎え入れたとされ、同じく近畿の修験霊場として名高い比叡山、比良山、伊吹山、愛宕山、金峰山、葛城山に並ぶ七高山の一角として大いに栄えたとされている。

宝亀5年(774年)、光仁天皇の子息であり桓武天皇の庶兄にあたる開成皇子が、勝尾寺(現・大阪府箕面市)から入山し、光仁天皇の命によって本堂を創建して住職となった。これを機に神峯山寺は天台宗仏教寺院となる。また光仁天皇の勅願所となって以降、神峯山寺は皇室に緊密な天台宗寺院となり、その関係は幕末まで続いていたとされる。境内には開成皇子の埋髪塔(五重塔)や、光仁天皇の御分骨塔(十三重塔)があり、日本天皇と皇室を表す十六八重菊の使用が認められ、各所に菊の紋章が見られる。(2017.1.17参詣)

創建年:(伝)683年 開基:開成皇子 本尊:毘沙門天 別称:・ 宗派:天台宗
白龍王社