浄瑠璃寺の所在する地区は当尾(とうの)の里と呼ばれ、付近には当尾石仏群と呼ばれる、鎌倉時代にさかのぼる石仏、石塔などが点在している。行政的には京都府に属するが、地理的には奈良の平城京や東大寺からも近く、恭仁宮跡(奈良時代に一時期都が置かれた)や山城国分寺跡も近い。
浄瑠璃寺の起源や歴史については、当寺に伝来する『浄瑠璃寺流記事』(じょうるりじるきのこと)という14世紀の記録が唯一のよりどころである。それによると、当寺は1047年(永承2年)、当麻(たいま、現・奈良県葛城市)の僧・義明上人を開基(創立者)、阿知山大夫重頼を檀那(後援者)とし、薬師如来を本尊として創建されたものであるという。義明上人、阿知山大夫重頼の2人の人物については、詳しいことはわかっていないが、重頼は地元の小豪族であろうと推定されている。
浄瑠璃寺は九体阿弥陀如来を安置する寺として知られているが、創建当初の本尊は薬師如来であった。九体阿弥陀如来を安置する現・本堂の建立は創建から60年後の1107年(嘉承2年)のことであった。1つの堂に9体もの阿弥陀如来像を安置するという発想は「九品往生」(くほんおうじょう)思想に由来する。「九品往生」とは「観無量寿経」に説かれる思想で、極楽往生(人が現世から阿弥陀如来のいる西方極楽浄土へと生まれ変わる)のしかたには、仏の教えを正しく守る者から、極悪人まで9つの段階ないし種類があるという考えである。
中世から近世にかけて浄瑠璃寺は興福寺一乗院の末寺であったが、明治初期、廃仏毀釈の混乱期に真言律宗に転じ、奈良・西大寺の末寺となった。(2014.3.19訪問)
|