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慈尊院(じそんいん)
本堂   

「慈尊院弥勒堂」(附 石造露盤宝珠1組、棟札17枚)として、1965年(昭和40年)5月29日、重要文化財(建造物)に指定。鎌倉時代後期の建築。桁行三間・梁間三間、一重、宝形造・檜皮葺。2004年7月、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録された。 

多宝塔   

本尊は大日如来が置かれているため、大日塔とも呼ばれている。弘法大師の創立。現在の塔は寛永年間(1624~1643)に再建されたものです。
 
大師堂   

弘法大師が祀られている。 脇仏として、四国八十八ヶ所霊場の本尊八十八躯が祀られている。ここにお参りすれば、四国にお参りされたと同様のご利益が得られる。
 
許梨帝母尊   

天女の形 右手に吉祥果(ざくろ)を持ち、左手に子供を抱いている。 ご利益は子育て、安産、子供いじめの解消、子供安全です。お釈迦様の時代に、鬼子母神が五百人とも千人とも云われる子を産み、子供を育てるため、他の子供をさらって、その子供を食べていました。食べられた子供の母親たちは嘆き悲しみ、お釈迦様にお願いしたところ、鬼子母神の子供を一人隠されました。初めて母親たちの悲しみを知り、それからよき母となったとされる。
 
大師堂
多宝塔



慈尊院(じそんいん)は、和歌山県伊都郡九度山町慈尊院にある高野山真言宗の寺院。山号は万年山。仏塔古寺十八尊第6番。

本尊の木造弥勒仏坐像は国宝(美術工芸品)。他に本堂弥勒堂、絹本著色弥勒菩薩像などの重要文化財を所蔵し、境内は国の史跡「高野山町石」の一部である。本堂弥勒堂はユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部

弘仁7年(816年)、空海(弘法大師)が嵯峨天皇から高野山の地を賜った際に、高野山参詣の要所に当たるこの九度山の雨引山麓に、高野山への表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所(寺務所)を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場とした。

高齢となった空海の母・阿刀氏(伝承では玉依御前)は、讃岐国多度郡(現:香川県善通寺市)から息子の空海が開いた高野山を一目見ようとやって来たが、当時高野山内は7里四方が女人禁制となっていたため、麓にあるこの政所に滞在し、本尊の弥勒菩薩を篤く信仰していた。空海はひと月に9度(正確に9度というわけではなく、それだけ頻繁にということの例えだと言われている)は必ず20数kmに及ぶ山道(高野山町石道)を下って政所の母を訪ねてきたので、この辺りに「九度山」という地名が付けられた。

空海の母は承和2年(835年)2月5日に死去したが、そのとき空海は弥勒菩薩の霊夢を見たので、廟堂を建立し自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀ったという。弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、この政所が慈尊院と呼ばれるようになった。空海の母がこの弥勒菩薩を熱心に信仰していたため、入滅(死去)して本尊に化身したという信仰が盛んになり、慈尊院は女人結縁の寺として知られるようになり、女人の高野山参りはここということで「女人高野」とも呼ばれている。

高野政所に関して「慈尊院」という名称が文献に現れた最も早い例は三条実行(藤原実行)の『鳥羽上皇高野御幸記』で、天治元年(1124年)、上皇が当地に行幸し、慈尊院の由来について尋ねたことが記されている。(2017.5.3参詣)

南海高野線九度山駅から徒歩約25~30分(約1.5km)

創建年:(伝)816年 開基:(伝)空海 本尊:弥勒仏 別称:・ 宗派:高野山真言宗
鐘 楼
表 門
本 堂
詞梨諦母尊
拝 堂