石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ) |
「石切さん」「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名。 創建年代は、火災により社殿及び宝庫が悉く消失したため詳らかではないが、 代々の社家「木積」家には、皇紀2年に生駒山中の宮山に可美真手命(うましまでのみこと)が饒速日尊(にぎはやひのみこと)を奉祀されたのを神社の起源とし、崇神天皇の御世に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝わる。 現在確認できる文献では、日本三代実録(巻十一)に「貞観7年9月22日に河内国正六位の石切劔箭神社従五位下を授く」との記述がみられ、延喜式神名帳にも「石切劔箭命神社二座」とみられる。 宮山の地にあった祭祀の場は、いつの頃か現上之社の場所に遷され、さらに明治38年には現在の本社本殿に合祀された。 その後も、上之社のあった土地は、奥の院として信仰を集め、いよいよ再興の気運が高まり、昭和7年に解体保存されていた本社の旧本殿を上之社に移し、昭和47年に往古の姿を取り戻した。昭和50年には東京都文京区に分祀され「石切東京分祀」が鎮座している(2013.8.9) |
創建年:伝・神武天皇二年 | 本尊:可美真手命および饒速日尊 |
近鉄石切駅で降りて西に少し行くと早速鳥居が、本殿はここから10数分のところの筈ですが。 | それを過ぎて電車沿いに赤い木の燈籠がずらっとならんでいた。 | 本殿までの途中に大仏が、石切大仏って書いてありましたが、何故ここに大仏があるのでしょうね。 | 写真が前後しましたが燈籠の道を右に曲がって商店街へ、今日は平日なので閉まっている店が多かった。ただ占いの場所(店?)が非常におおかった。 |
これも途中にあった不動明、石切と書いてあるが石切さんとの関係は不明、周りに聞く人もいなかった。 | これまた途中に見た千手寺、これは石切さんとは余り関係ないかな? | その寺の本堂、雰囲気としてはそこそこ歴史があるように感じられた。 | ここからが石切神社、絵馬殿、私にはこの建物が一番古く見え堂々とした貫禄が感じられた。 |
本殿、境内の丁度中央に位置し非常に趣のある建物であった。 | 神武社、祀られるのは神武天皇、東征の折に先住民の抵抗が激しくこの戦いの戦勝を願って石を蹴り上げられたとか、その巨石を御霊代として祀ってあるそうです。 | 五社明神社、商売繁盛はもとより、大漁成就、五穀豊穣、産業隆盛のお宮として、様々なご商売を営まれる方々から篤い信仰を集めているそうです。 | 正面鳥居から本殿を臨む、先ほどの神武社、五社明神社は本殿までの右側にあった。 |
御神火祭場と収納殿、入り口が閉ざされこれ以上は入れなかった。 | 禊殿だったと思うがこの社には大きな印象がなくひょとしたら間違いかも、スミマセン。 | 御神馬、本殿の前にあったがこれも何故っていう感じでここに何故御神馬? | 水神社、水を司られる祈雨祈晴の神として、古くは雨乞いの神事なども行われていたそうで古来、亀の池とも呼ばれており、甲羅に名前を書いて、亀を池に放すと心願が成就すると伝えられ、かつてはその数、千匹にも及んだとか。 |
左の祈祷受付所と本殿の間がこんな橋で繋がれていました。ちょっと珍しい。 | 穂積神霊社、穂積堂は昭和45年に焼失してしまい、後に穂積堂に祀られていた御神霊を穂積神霊社として再びお祀りしたのがこの社です。病魔災難除け、学問向上の神様として篤い信仰を集めているそうです。 | 乾明神社、江戸時代の中頃、この地方の庄屋で、大変信望の厚かった乾市良兵衛という方がいたそうで、飢饉に苦しむ民に代わり我が身を省みず、命をかけてお上に直訴され、後に代官であった小堀家によって丁重にお祀りされたのがこのお宮だそうです。。知恵の神様・学問の神様として崇敬されており受験生の神様でもあるそうです。 | 石切寮、どんな寮なのか近くにいた人に確認したが不明です。 |
ここから3枚は縦写真ですので纏めました、順路とは違いますがすいません。この写真は境内を出てすぐにあった神武社跡地です。 | 本殿の前にあったお百度参りの片方の石柱です。奥にもう一方が見えるでしょか?丁度2人の男性が参られてました。 | これは境内の一番北です。これが北側の入り口です。 | この写真は境内の南にあった牛の像です。これも良く分かりませんでした。 |
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