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本堂 | 本堂(法堂、重要文化財)仏殿とも呼ばれる。永享年間(1429年ー1441年)に室町幕府将軍足利義教によって建てられた禅宗様仏教。 | |
開山堂 | 開山堂(大応堂)1912年(大正元年)に改築されたが、内部は以前のままである。 妙勝寺開山南浦紹明(大応国師)の木像が安置されている。この木像は一休宗純が 妙勝寺を再建した際に安置したものである。 |
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庫裏 | 方丈(重要文化財)慶安3年(1650年)に前田利常により再建。内部襖絵は江戸時代初期の画家狩野探幽の筆によるもの。今あるのは複製で本物は宝物殿にある。重要文化財の木造一休和尚坐像が仏間・昭堂に安置されている。一休の没年である文明13年(1481年)の作。頭髪と髭を植え付けた跡があり、一休の遺髪を植えたと伝えられている。一休の高弟墨済によるものである。 | |
一休和上像 | 出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤と伝えられている。母親の出自は不詳だが、皇胤説に沿えば後小松天皇の官女で、その父親は楠木正成の孫と称する楠木正澄と伝えられ、三ツ島(現・大阪府門真市)に隠れ住んでいたという伝承があり、三ツ島に母親のものと言われる墓が現存する。 6歳で京都の安国寺の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門・受戒し、周建と名付けられる。早くから詩才に優れ、応永13年(1406年)13歳の時に作った漢詩『長門春草』、応永15年(1408年)15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中でも評判となった。 応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純と改める。ところが、謙翁は応永21年(1414年)に死去し、この頃に一休は自殺未遂を起こしており、謙翁の死から一週間、石山観音に籠るも悟りが開けず近くの川に身を投げようとしたが、一休の様子が変だと一休の母から見張ることを指示されていた男が制止、説得されて自殺を思い止まったという。 応永22年(1415年)には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇の弟子となる。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かる。「有漏路(うろじ)」とは迷い(煩悩)の世界、「無漏路(むろじ)」とは悟り(仏)の世界を指す。 文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持[を任せられた。寺には住まなかったが再興に尽力し、塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになった。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。 文明13年(1481年)、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)においてマラリアにより死去。満87歳没(享年88)。臨終の際の言葉は「死にとうない」であったと伝わる。墓(御廟所)は酬恩庵にあり「慈楊塔」と呼ばれるが、宮内庁が管理している陵墓であるため、一般人が墓所前の門から内部への立ち入りはできないが、廟所の建物は外部からでも見える。参拝は門の前で行う。 |
酬恩庵(しゅうおんあん)一休寺 |
酬恩庵(しゅうおんあん)は、京都府京田辺市にある臨済宗大徳寺派の寺院。山号は霊瑞山。本尊は釈迦如来。一休寺(いっきゅうじ)または「薪(たきぎ)の一休寺」とも称される。枯山水の石庭や一休宗純の木像のほか、納豆の一種である「一休寺納豆」でも有名。 |
創建年:正応年間 | 開基:大応国師 | 本尊:釈迦如来坐像 | 別称:一休寺 | 宗派:臨済宗大徳寺派 |