閻魔堂 
 
 
閻魔王及び眷属像(重要文化財) - 閻魔堂は鎌倉時代作の閻魔王坐像(像高160.9cm)、および閻魔の法廷で書記を務める冥界の役人の司録坐像(像高143.6cm)、司命坐像(像高122.4cm)、倶生神坐像(像高114.5cm)、闇黒童子(暗黒童子)坐像(像高110.5cm)の5躯の木像を並べて安置し、地獄の法廷を再現する。これらの像はもとは天王山西麓にあった西観音寺(大阪府島本町山崎5丁目にあった)に安置されていたもので、明治の廃仏毀釈で西観音寺が廃寺となった後、宝積寺に移された。以上の像名は寺伝に基づくものだが、図像的には、伝・司録は五道転輪王、伝・司命は太山府君、伝・倶生神は司命、伝・闇黒童子は司録が本来の像名とみられる。伝・倶生神像と伝・闇黒童子の両像は撲頭冠を被り、道服(唐時代の役人の着衣)を着し、伝・倶生神は左脚、伝・闇黒童子は右脚を踏み下げて坐す。両手で巻物を広げる姿の伝・倶生神像が本来の司命像、右手に筆、左手に木札を持って筆写のポーズを示す伝・闇黒童子像が本来の司録像である。

小槌宮
 
仁王門
不動堂
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宝積寺(ほうしゃくじ)
本 堂




JR京都線 山崎駅 徒歩10分・阪急京都線 大山崎駅 徒歩15分

宝積寺(ほうしゃくじ)は、京都府乙訓郡大山崎町の天王山中腹にある真言宗智山派の仏教寺院。山号は天王山または銭原山(古くは補陀洛山といった)、本尊は十一面観音である。724年、聖武天皇の勅命を受けた行基による開基と伝える。

聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀ることから「宝寺」(たからでら)の別名があり、大黒天宝寺ともいう。

宝積寺は、山城国(京都府)と摂津国(大阪府)の境に位置し、古くから交通・軍事上の要地であった天王山(270m)の南側山腹にあり、寺伝では神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝える。行基は奈良時代に架橋、灌漑などの社会事業を行い、多くの寺を建てた僧である。

行基は神亀2年(725年)、淀川に「山崎橋」(山崎-橋本間)を架けている。また、『行基年譜』によれば、行基は天平3年(731年)、乙訓郡山崎に「山崎院」を建立している。天王山の南側山麓に位置する大山崎町大山崎上ノ田の遺跡が「山崎院」跡に比定されており、ここからは日本でも最古級の壁画断片などが出土している。以上のことから、天王山周辺は行基にゆかりの深い地であることは確かで、宝積寺は「山崎院」の後身と考える説もある。

宝積寺は貞永元年(1232年)の火災で焼失しており、現存する仏像等はこれ以降のものである。それ以前の寺史はあまり明らかでないが、長徳年間(995年-999年)、寂昭が中興したという。寂昭は俗名を大江定基といい、『今昔物語集』所収の説話で知られる。それによれば、彼は三河守として任国に赴任していた時に最愛の女性を亡くし、世をはかなんで出家したという。

11世紀末から12世紀初めの成立と思われる『続本朝往生伝』(大江匡房著)には早くも当寺の通称である「宝寺」の名が見える。また、藤原定家の日記『明月記』には建仁2年(1202年)に彼が宝積寺を訪れたことが記されている。

天正10年(1582年)、天王山が羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いの舞台となり、その際宝積寺には秀吉の本陣が置かれた。直後秀吉により天王山に建設された「山崎城」にも取り込まれ、このため城は「宝寺城」とも呼ばれた。元治元年(1864年)には禁門の変で尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地が置かれた。

大正4年(1915年)には夏目漱石が当地を訪れた。漱石は、宝積寺の隣地に実業家・加賀正太郎が建設中であった山荘(現・アサヒビール大山崎山荘美術館)を訪れ、「宝寺の隣に住んで桜哉」の句を詠んだ。(2019.11.12参詣)

創建年:伝724年 開基:(伝)聖武天皇・行基 本尊:十一面観音 別称:宝寺 宗派:真言宗智山派
閻魔堂