①三重塔
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①三重塔   
1944年、雷火で焼失後、作家の幸田文らの尽力で寄金を集め、1975年に西岡常一棟梁により再建されたもの。焼失した塔は、近隣の法隆寺、法起寺の塔とともに斑鳩三塔と呼ばれ、7世紀末頃の建立と推定される貴重な建造物であった。 
②金堂   
1645年台風で堂宇が倒壊してし、三重塔が修復された1760年の翌年に再建されたものです。
昭和25年の発掘調査により、旧金堂の位置を踏襲しながら、旧金堂よりひとまわり小さくなっていることが分かった。
 
③講堂  
江戸時代の小さな講堂を、昭和35年に耐火耐震の鉄筋コンクリートの収蔵庫として建てなおされました。規模は小さくなっているが、旧講堂の位置を踏襲して建てられている。
 
④妙見堂   
旧妙見堂はお寺の北の山中から境内に移築されたものであったそうです。1731年に再建されたと伝えられている。これを最近では平成15年に改修がなされたということです。 
⑤地蔵堂   
江戸時代の建物で、鎌倉時代末の石造りのお地蔵様を祀っている。 
⑥西門 
 
 上土門(あげつちもん)の数少ない遺構のひとつ。現在では、この門のほかには、法隆寺西園院上土門が残るだけになっているとのこと。

JR西日本関西本線大和小泉駅から徒歩15分




法輪寺(ほうりんじ)


法隆寺東院の北方に位置する。現存する三重塔は1975年の再建であるため、世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」には含まれていない。法輪寺は寺史に関わる史料が乏しいため、創建事情の詳細は不明であるが、発掘調査の結果等から、7世紀中頃には存在していたことは間違いない。本尊薬師如来像と虚空蔵菩薩像も飛鳥時代末期にさかのぼる古像である。三井寺と言う別名は、当寺のある三井の地名に由来し、付近に聖徳太子ゆかりと言われている3つの井戸があった所から来ている。

当寺の創建については、『日本書紀』や『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』(ほうりゅうじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう)には記載がなく、不明な点が多い。

創建については、古くから2つの説がある。1つの説は『聖徳太子伝私記』(嘉禎4年・1238年、顕真著)に見えるもので、聖徳太子の子である山背大兄王が太子の病気平癒を祈るため、622年(推古30年)に建てた、とする。今一つの説は『上宮聖徳太子伝補闕記』(平安時代前期成立)および『聖徳太子伝暦』(延喜17年・917年、藤原兼輔著)に見えるもので、創建法隆寺の焼失後、百済の開法師・円明法師・下氷新物(しもつひのにいもの)の3人が建てたとするものである。これらの人物の名前については「聞法師、円明師、下氷君雑物(しもつひのきみくさもの)とも伝えるが、いずれの人物も伝記は不明である。

発掘調査の結果、法隆寺再建伽藍(現存)に近い瓦と、それより一段階古い瓦とが出土している。また、前身建物の遺構とみられる掘立柱穴や溝も検出されており、当時の創建は飛鳥時代末期、7世紀中頃までさかのぼると考えられている。(2014.3.28訪問)


創建年:①622年、②670年 開基:①山背大兄王②百済開法師・圓明法師・下氷新物 本尊:薬師如来 別称:三井寺、法林寺、法琳寺 宗派:聖徳宗
表門
②金堂
⑥西門
③講堂

④妙見堂
⑤地蔵堂