宝厳寺(ほうごんじ) |
宝厳寺(ほうごんじ)は、滋賀県長浜市の竹生島にある真言宗豊山派の寺院。山号を巌金山(がんこんさん)と称する。本尊は弁才天(観音堂本尊は千手観音)、開基(創立者)は行基とされる。西国三十三所観音霊場の第30番札所である。観音霊場であるとともに、弁才天信仰の聖地でもあり、日本三大弁才天の1つにも数えられている(他の2つは厳島神社と江島神社とされている)。 宝厳寺は奈良時代、聖武天皇の命により、僧・行基が開創したとされている。行基は出身地の河内国(大阪府南部)を中心に多くの寺を建て、架橋、治水灌漑などの社会事業にも尽くし、民衆の絶大な支持を得ていたとされる僧であり、近畿一円に行基開創を伝える寺院は多い。宝厳寺の寺伝によれば神亀元年(724年)、行基が竹生島を訪れ、弁才天を祀ったのが起源とされているが、承平元年(931年)成立の『竹生島縁起』には、行基の来島は天平10年(738年)で、小堂を建てて四天王を祀ったのが始まりという。同縁起によれば、天平勝宝5年(753年)、近江国浅井郡大領の浅井直馬養(あざいのあたいうまかい)という人物が、千手観音を造立して安置したとある。当初は本業寺(ほんごうじ)、のちに竹生島大神宮寺と称し、東大寺の支配下にあったが、平安時代前期、10世紀頃から近江国の他の多くの寺院同様、比叡山延暦寺の傘下に入り、天台寺院となった。以降、島は天台宗の僧の修行の場となった。また、平安時代末期頃からは観音と弁才天信仰の島として栄えた。 中世以降、貞永元年(1232年)、享徳3年(1454年)、永禄元年(1558年)などに大火があったが、その都度復興している。永禄元年の大火後、慶長7年-8年(1602-1603年)、豊臣秀頼が片桐且元に命じて伽藍を復興している。この際復興されたのが唐門、渡廊、観音堂、ならびに弁才天社(現・都久夫須麻神社本殿)である。唐門は豊国廟(京都東山にあった豊臣秀吉の霊廟)の唐門(極楽門ともいい、元は大坂城の極楽橋の唐破風造部分であった可能性が指摘されている)を移築したものであり、都久夫須麻神社本殿は豊国廟あるいは伏見城の日暮御殿を移築したものとされる。 明治の神仏分離の際、時の政府は弁才天社を平安時代の『延喜式』に見える「都久夫須麻神社」という社名に変更することを強要し、仏教寺院としての宝厳寺は廃寺の危機を迎えるが、寺側は、弁才天は仏教の仏であると主張して譲らなかった。結局、竹生島の信仰施設は宝厳寺と都久夫須麻神社に分離することになり、明治7年(1874年)に「寺」と「神社」の境界が決まり、明治16年(1883年)には寺の財産と神社の財産が区別されて今日に至っている。現状、宝厳寺と都久夫須麻神社は別法人であるが、宝厳寺観音堂と都久夫須麻神社本殿は渡廊で直接連絡しており、両者はもともと不可分の関係にあることがわかる。(2016.5.17参詣) |
①唐門 | 船着き場から急な石段を上り、途中で右に入った位置に建ち、観音堂に接続している。この門は慶長7年(1602年)に豊国廟(京都の東山にあった豊臣秀吉の霊廟)の唐門(極楽門)を移築したものであることが、『梵舜日記』にみえる。その極楽門は大坂城の極楽橋の唐破風造部分を豊国廟へ移築したものである可能性が指摘されてる。極彩色の彫刻と飾金具で飾った華麗な門で、桃山時代の雰囲気を伝えている。 |
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②観音堂 | 入母屋造檜皮葺き。西国三十三所観音霊場第30番札所で、本尊の秘仏千手観音立像(鎌倉時代)を安置する。傾斜地に建つため、床下に長い柱を立てて支える懸造(かけづくり)となっている。柱などの木部は総漆塗りで、天井には極彩色で菊、桐などの文様を描く。柱が床下部分まで漆塗りであるなど、各所に移築の痕跡があり、他所から移築されたものである。札所本尊の千手観音像は秘仏で、開扉は原則として60年に一度である。 |
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③渡廊 | 宝厳寺観音堂と都久夫須麻神社を結ぶ屋根付きの廊下である。豊臣秀吉の御座船の用材を用いて建てたという伝承から「船廊下」の称がある。 |
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④本堂 | 船着き場からの石段を真っ直ぐに上りきった高台に建つ、寺内最大の建物。本尊弁才天像を祀る。1942年に平安時代様式で新築されたもの。 |
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⑤三重塔 | 弁才天堂の向かいに建つ。近世に焼失して以降長らく失われていた塔で、2000年に再興された。 |
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創建年:724年 | 開基:(伝)行基・聖武天皇 | 本尊:弁才天 | 別称:・・・ | 宗派:真言宗豊山派 |