YOU TUBEでご覧ください




 



① 齋殿神社
 
神功皇后の命を受けて、天照大神御魂を広田の地に祀った葉山媛命を祀る。例祭日は5月8日。元は境外にあったが、享保12年に境内に遷座した。  
② 伊和志豆神社
 
式内大社論社(宝塚市伊孑志にも論社伊和志津神社がある)。祭神:伊和志豆之大神。例祭日は12月18日元は独立の神社で、明治6年に村社に列格した。大正6年に廣田神社境内へ移転したが、第二次大戦で社殿を失い、本殿に合祀された。平成2年に社殿が再建された。 


西宮北口駅(阪急神戸線)から、阪急バス(甲東園行き)で「広田神社前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
西宮駅(JR神戸線)から、阪急バス(甲東園行き)で「広田神社前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
西宮駅(阪神本線)から、阪神バス(山手東廻り)で「広田神社前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)





廣田神社(ひろたじんじゃ)


日本神話に当社の創建のことが書かれている。神功皇后の三韓征伐に出発する際、天照大神の神託があり、和魂が天皇の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くだろうと言った。皇后の留守の間に忍熊王が神功皇后とお腹の中にいる皇子(後の応神天皇)を亡きものにしようと明石で待ち伏せていた。戦いを終え、帰途それを知った神功皇后は、紀淡海峡に迂回して難波の港を目指した。しかし、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまった。そこで兵庫の港に向かい、神意をうかがうと、天照大神の託宣があった。「荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良い」と。そこで皇后は、山背根子の娘の葉山媛に天照大神の荒魂を祀られた。これが廣田神社の創建である。このとき、生田神社・長田神社・住吉大社に祀られることになる神からも託宣があり、それぞれの神社の鎮座が行われた。すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王を退治することができた。

朝廷より篤い崇敬を受け、『延喜式神名帳』では名神大社に列し、二十二社の一社とされ、たびたび奉幣勅使の派遣があった。平安時代後期より、神祇伯白川家との関係が深く、代替わりのごとに当社に参詣していた。中世には和歌の神として信仰されるようになり、社頭にて何度か歌合せが行われている。

当初は甲山山麓の高隈原に鎮座し、後に御手洗川のほとりに遷座したが、水害のため、享保9年(1724年)に現在の西山の地に遷座し、1945年、空襲による全焼までは西側の廣田山に鎮座、そして戦後、その東側の現在地に移転した。明治4年(1871年)には官幣大社に列格した(兵庫県で最初。伊弉諾神宮は1931年に列格)。かつて「向か津峰」と呼ばれた六甲山全山は、元は廣田神社の社領であったという。六甲山大権現を古くからの祭神とする六甲山神社(むこやまじんじゃ石の宝殿=現廣田神社の摂社)と六甲比命神社(むこひめじんじゃ)がかつての奥宮と考えられる。六甲比命神社は、インドの渡来僧法道仙人によって大化改新の頃に、付近の心経岩、雲ヶ岩とともに、唐櫃(からと)の吉祥院多聞寺 (神戸市北区)(本尊、毘沙門天、吉祥天、禅膩師童子)奥の院とされた。   六甲山東麓の社家郷山は廣田神社宮司家の所有地であったその名残という。  昭和20年に空襲によって社殿を焼失、現在の本殿は伊勢神宮荒祭宮の旧社殿を譲り受けて昭和31年に竣工したものである。平成13年に鎮座1800年の喜節を迎えた。

廣田神社を中心とする神社群は、京から西国方向を目指す街道上にある神社ということで「西宮」(にしのみや)とも呼ばれていた。「西宮」の語は、後に廣田神社の神郷一帯(現在の神戸市東部から尼崎市西部まで)を指すようになったが、行政区画では廣田神社が武庫郡大社村、戎社(現・西宮神社)が西宮町となり、現在は町村合併により西宮市に含まれている。えべっさんで有名な西宮神社は元は広田の摂社、浜南宮で、西宮神社境内の南宮神社がその原型といえる。(2014.9.2訪問)


創建年:伝・神功皇后2年 主祭神:天照大神荒魂
五末社
②伊和志豆神社
第三・第四脇殿
第一・第二脇殿
神池
社務所
松尾神社
祓所
①斎殿神社
拝殿