平城宮跡(へいじょうきゅうせき) |
710年~784年の日本の首都・平城京の中枢部分をいう。元明~桓武天皇の8代にわたる宮である。<ならのみや><へいぜいきゅう>とも読む。宮は天皇の居所を中心とする、内裏、政治や儀式を行う大極殿・朝堂院、及び官などによって構成される。平城京の北端中央に位置し、一辺1kmの正方形の東に東西250m・南北750mの張り出し部分があり、面積は合計124haを占める。それまでの宮のあった藤原宮とはほぼ南北の位置関係にあり、古来の官道であった下ツ道を約20km北上したところに営まれた。大宝律令の完成に伴い、より本格的な都城造りを目指した政府は、707年に遷都を発議し、翌年に平城の地と決定、宮は造宮職、京は造平城京司が担当して造営にあたり、710年3月に遷都した。その推進には、当時右大臣であった藤原不比等の強い指導力が発揮されたと推定されている。造営以前の地は菅原という名で、古墳群や集落があったが、それを一部取り壊しての造営であった。(2013.7.23)奈良大学寺崎先生より。 |
平城京跡全体図、8世紀の古代都城、大半は現在の奈良市にあるが西南の一部が大和郡山市に含まれる。上部に平城宮、拡大してみて下さい。 |
平城宮の全体図、1km四方と考えられていたが東に膨らんだ部分が国道24号線のバイパスを作る際に発見された。 | 旧のJR奈良駅、ここは現在使われていない。風情のあるデザインで今日も残されている。 | 先ほどの旧駅舎の東にポツンと平城宮へ至る距離を表示した石碑が、但し歩くには相当な距離がありますよ。 |
朱雀門、第一次大極殿の正面の門で基壇跡が発見され平成6年に復元工事が始められ平成10年4月に完成。 | 復元された朱雀門は間口25.7m、奥行き10mの二重屋根の重層門で高さ20mの入母屋造り、本瓦葺です。 | この朱雀門は平城宮の正面玄関で、羅城門まで幅74m(側溝を含めると80m)の道が3.7km続いていたそうです。 | 平城京に都が置かれた時代は<遣唐使>と共に歩んだ歴史。日本の国づくりの礎となるため大海を渡り唐の優れた制度や技術・文化を持ち帰った。 |
そんなに大きな船ではないが全体はガッチリ作られており(これは現在作ったからか?)頼もしい船のように感じられた。 | 船の内部、ここに上がってみると大波がきた際にはチョット心配かなっていう感じななりました。 | 大極殿院の周りに作られた大極院塀にある門から大極殿を見る。この真後ろが朱雀門です。 | 大極殿、2010年、平城遷都1300年にあわせて第一次大極殿のあとに復元されました。正面から見ると圧倒される思いがします。 |
大極殿、正面44m、奥行き19.5m、高さ26.9m基壇の高さを合わせると30mを超える高さだそうです。 |
南西から見た大極殿、この方角から見るとさらに大きな建物に見える。 | 大極殿から朱雀門を臨む、この間の距離は800mあるそうです。 | 大極殿の内部中央にある御座、これを写真に撮れるのは時代の変遷か・・ |
鴟尾、中国が起源で日本には6世紀末に伝わり飛鳥、白鳳、奈良時代に盛んに用いられたとか。 | 大棟中央飾り、中国でよく見られたとかで古くは鳥型だったらしいです。法隆寺東院夢殿の宝珠を参考に作られ高さは2mとのこと。 | 木が丸く刈り込まれ、何かと思えば昔に建物があった柱のあった場所に植えられているそうです。東から大極殿を見ていますので内裏跡か? |
内裏にあった井戸の復元、あまりにも新しいのでピンとこないが・・・ |
宮内省の復元建物の入り口、こんな役所の復元がもっと進めば当時がもっと偲ばれるかも。 | この建物は内裏の東側にある宮内省跡、東西50m、南北90mの中に6棟もの建物があったとか、発掘調査の結果復元されたとか、良く分かるものですね。 | 遺構展示館内の発掘現場。穴の所に柱があったとか、現在の地表から2m(?)位は掘り下げているかな。 | 同じく遺構、状態は左の写真と同じようだった。 |
こんな大きな柱が、向こうにいる人と比べてみて下さい。 |
内裏復元建築、すごく清楚な感じで落ち着いた建物であった。 | 礎石、説明でこれは遺構から出てきたもではないとか? | これは確か昔の下水の跡だったそうです、遺構館の中です。 |
これは遺構館の出口ですがこんな建物の中に先ほどまでのものがありまうあ。 | 東院庭園、平城宮跡の張り出し部分にあります。庭園の遺構と共に多くの瓦が出てきた。現在でも皇太子のご住居を東宮御所といいますが、この時代もそうかと思われますが確かではないとか。 | 庭園内図 | 平城宮跡碑がこんなところ(近鉄電車の線路のすぐ北)にありました。 |
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