長谷寺(はせでら)




長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。承和14年(847年)12月21日に定額寺に列せられ、天安2年(858年)5月10日に三綱が置かれたことが記され、長谷寺もこの時期に官寺と認定されて別当が設置されたとみられている。なお、貞観12年(870年)に諸寺の別当・三綱は太政官の解由(審査)の対象になることが定められ、長谷寺も他の官寺とともに朝廷(太政官)の統制下に置かれた。長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。 長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、16世紀以降は覚鑁(興教大師)によって興され僧正頼瑜により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山(根来寺)を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成された。近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問寺としての性格を強めている。(2013.10.12訪問)


創建年:奈良時代(8世紀前半) 開基:道明 本尊:十一面観音 別称:花の御寺 宗派:真言宗豊山派
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①仁王門   
長谷寺の総門で、三間一戸入母屋造本瓦葺の桜門である。両脇には仁王様、楼上に釈迦三尊十六羅漢像を安置する。現在の建物は明治二十七年(1894)の再建。 
②宗宝蔵
 
長谷寺六坊の一つ、清浄院跡地に建つ。
春と秋に開扉して長谷寺に伝わる国宝・重要文化財等の宝物公開を行っている。
 
③登廊 
 
平安時代の長暦三年(1039)春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の御礼に造ったもので、百八間、三九九段、上中下の三廊に分かれている。下・中廊は明治二十七年(1894)再建で、風雅な長谷型灯籠を吊るしている。 
④本堂   

本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり、舞台造とも)になっている。本堂は奈良時代の創建後、室町時代の天文5年(1536年)までに計7回焼失している。7回目の焼失後、本尊十一面観音像は天正7年(1538年)に再興(現存・8代目)。本堂は豊臣秀長の援助で再建に着手し、天正16年(1588年)に新しい堂が竣工した。ただし、現存する本堂はこの天正再興時のものではなく、その後さらに建て替えられたものである。現存の本堂は、徳川家光の寄進を得て、正保2年(1645年)から工事に取り掛かり、5年後の慶安3年(1650年)に落慶したものである。
全体の平面規模は間口25.9メートル、奥行27.1メートル。
 

⑤開山堂 
 
長谷寺開山、徳道上人を祀る。併せて西国三十三所各霊場のご本尊様をお祀りしている。毎月二日、徳道上人回向の法要を行っている。 
⑥弘法大師御影堂 
 
宗祖、弘法大師1150年御遠忌を記念して、昭和五十九年(1984)総檜で建てられた。大師の両側には、精密な版画”長谷寺版両界曼荼羅”が祀られている。 
⑦本長谷寺   
天武天皇の勅願により、道明上人がここに精舎を造営したことから、本長谷寺と呼ばれている。朱鳥元年(686)、道明上人は天武天皇のご病気平癒のため”銅板法華説相図”を鋳造し、本尊としてお祀りされた。 
⑧五重塔   
 昭和29年、戦後日本に初めて建てられた五重塔で昭和の名塔と呼ばれている。純和式の整った形の塔で、塔身の丹色と相輪の金色、軽快な檜皮葺屋根の褐色は、背景とよく調和し、光彩を放っている。 
⑨本坊   
 事相・教祖の根本道場である大講堂や書院などがある。寛文七年(1667)徳川将軍の寄進で建立されたが、明治四十四年(1911)炎上、現在の堂宇は大正十三年(1924)に再建された。総檜造りの大殿堂で、平成二十四年3月三十日奈良県指定有形文化財に登録された。 

近鉄 大阪線・長谷寺駅から徒歩15分



⑥弘法大師御影堂
⑦本長谷寺
④本堂
⑤開山堂
⑨本坊
①仁王門
③登廊
②宗宝蔵
⑧五重塔