不退寺(ふたいじ)は、奈良県奈良市法蓮町にある真言律宗の寺院。山号は金龍山。本尊は聖観音(業平観音とも呼ばれる)。寺号は詳しくは不退転法輪寺と称する。
大同4年(809年)、平城天皇が譲位してのちこの地に隠棲し「萱の御所」と称する屋敷を創建したのがそもそもの始まりとする。その後平城天皇の皇子である阿保親王、更に阿保親王の5男である在原業平が暮らしたという
業平が伊勢神宮を参詣した時に受けた神勅を機に、承和12年(845年)、仁明天皇の詔を奉って承和14年(847年)、萱の御所を寺に改めて業平が自ら聖観音像を刻み、「不退転法輪寺」と号して阿保親王の菩提を弔い、仁明天皇の勅願所となったのが、寺院としての始まりと伝えられている。
寺の近辺からは平安時代前期の古瓦や木簡が出土しており、創建がその頃までさかのぼることは認められるが、中世以前の沿革はあまり明らかでない。
確実な史料における不退寺の初見は『三代実録』に、貞観2年(860年)10月15日、真如親王が平城京内の田地を不退寺に施入したとみえるものである。真如親王(法親王)は出家前の名を高岳親王といい、平城天皇の皇子、阿保親王の弟にあたる。このことから、不退寺は伝承どおり平城天皇所縁の寺であると推定される。
平安時代末期の養和元年(1181年)、平重衡による南都焼討のために諸堂が炎上し、鎌倉時代になってから西大寺の興正菩薩叡尊によって再興され、中世から近世にかけては西大寺及び興福寺一乗院双方の末寺とされ、二重の支配を受けた。またこの頃には浄名院・不動院・長老坊という塔頭があったようである。
江戸時代の慶長7年(1602年)には江戸幕府により寺領50石が安堵されており、天和3年(1683年)には七堂伽藍が軒を並べていた。しかし、江戸時代中期ごろから衰微し始め、上記の塔頭も廃絶した。
幕末からは無住となり、西大寺三光院の住職が兼務をしていたようである。1872年(明治5年)から数年のうちには老朽化していた多宝塔の上層部を取り払っているが、1885年(明治18年)、品川弥二郎によって瑞景寺の庫裏が移築されている。
1873年(明治6年)から1923年(大正12年)までは完全に無住となり、西大寺住職が兼務するようになった。しかし、1923年(大正12年)に住職が入り、1930年(昭和5年)4月に久邇宮邦英王(後の青蓮院門跡東伏見慈洽)が見学にきてその窮状を見聞するや国と話を付けて国庫補助が下りることとなった。こうして1930年(昭和5年)に本堂が、1934年(昭和9年)には多宝塔と南門が解体修理された。
(2024.1.17参詣)
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