伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ) |
和銅年間(708 - 715年)(一説に和銅4年(711年)2月7日)に、伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて伊奈利山(稲荷山)の三つの峯にそれぞれの神を祀ったことに始まる。秦氏にゆかり深い神社である。和銅以降秦氏が禰宜・祝として奉仕したが、吉田兼倶の『延喜式神名帳頭註』所引の『山城国風土記』逸文には秦氏が稲荷神を祀ることになった経緯が以下のように記されている。
『延喜式神名帳』には「山城国紀伊郡 稲荷神社三座 並名神大 月次・新甞」と記載され、名神大社に列し月次・新甞の幣帛を受けた。 社家には学者が多く、国学者の荷田春満も当社の社家出身である。境内には荷田春満の旧宅が保存されており、隣設して荷田春満を祭神とする東丸神社(あずままろじんじゃ)がある。この神社は荷田春満の旧宅の一角に建てられているため、伏見稲荷大社の楼門内にあるが摂末社ではなく独立した神社であり、1903年に府社に列格されており、規模の割に高い社格となっている。学問の神として信仰されている。 応仁の乱の戦渦が去った15世紀後半には、神仏習合の下に伏見稲荷本願所に真言宗東寺の末寺の愛染寺が神宮寺として建立されたため、稲荷山では仏教系の稲荷として荼吉尼天も礼拝されまた愛染寺が伏見稲荷大社の社殿造営や修復、勧進、出開帳を管理していた。しかし、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって1868年(慶応4年)に愛染寺や社内の仏殿、本殿内の仏像類は廃された。ただし、祭礼時の東寺神供だけは現在も残っている。 明治4年(1871年)には近代社格制度のもとで官幣大社に列格するとともに正式社名を「稲荷神社」とし「官幣大社稲荷神社」となったが、戦後昭和21年(1946年)に神社本庁とは独立した単立宗教法人となった。これは神社本庁が伊勢神宮を本宗とするのに対し大社側として別の見解を取ったためで、神社本庁との関係は良好である。宗教法人化とともに社名を「伏見稲荷大社」と改称したが、これは近代社格制度の廃止に伴い、そのままでは社名が単に「稲荷神社」となって、他の多くの稲荷神社と混同することを避けるためである。 近年は拝観料不要で閉門時間が無いこともあり外国人観光客の人気が高く、平日でも多くの外国人が稲荷山を訪れている。
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創建年:(708年-715年) | 開基:・・ | 主祭神:稲荷大神 | 別称:・・ | 神体:稲荷山 |
①楼門 |
この建物は天正17年(1589年)豊臣秀吉の造営とされてきました。 秀吉の母大政所殿の病悩平癒祈願が成就すれば一万石奉加する、と記したいわゆる“命乞いの願文”が伝来しています。 しかし造営伝承と伝来文書との整合性については多少の疑問がありました。ところが昭和48年に楼門の解体修理が行われたところ、願文の年次と同じ「天正17年」の墨書が発見され、伝承の正しかったことが確認されました。神社の楼門の規模としては最も大きいものに属します。 |
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②本殿 |
社記には「御本殿五社相殿ウチコシナガシ作四方ニ高欄有ケタ行五間五尺ハリ行五間五尺」とあり「稲荷造」と称されています。 応仁2年(1468)の兵火により、境内の殿舎堂塔の全てが焼亡し、やがて仮殿の復興があったようですが、その後に諸国へ勧進が行われようやく明応8年(1499)に再興されました。 社殿建築としては大型に属し、装飾、特に“懸魚”の金覆輪や“垂木鼻”の飾金具、それと前拝に付けられた“蟇股”等の意匠に安土桃山時代へ向かう気風がみなぎり、豪放にして優華な趣をただよわしています。 |
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③千本鳥居 |
「赤い鳥居」といえば、すぐさま人々は「おいなりさん」を連想するほど、赤という色が人々の心情に深く染みとおっています。 元来、稲荷の鳥居は社殿と同じく「稲荷塗」といわれ、朱をもって彩色するのが慣習となっています。 この「あけ」という言葉は、赤・明・茜など、すべてに明るい希望の気持ちをその語感にもち、その色はまた生命・大地・生産の力をもって稲荷大神の“みたま”の働きとする強烈な信仰が宿っています。 |
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④奥社奉拝所 |
本殿の東方、千本鳥居をぬけたところ通称“命婦谷”にあり、一般には「奥の院」の名で知られています。この奥社奉拝所はお山を遥拝するところで、稲荷山三ケ峰はちょうどこの社殿の背後に位置しています。 当社に伝わる明応の遷宮記(1499)には「・・・東ニハ当社奥院トテ命婦形マシマス也」とあり、その創建の古さが偲ばれますが、規模の子細については不明。江戸時代にはその名を封戸所・供物所ともいっております。寛政6年の罹災後、規模を幾分大きくして造営されたのが現在の社殿で、昭和50年に社殿を後方の今の位置に移し、前に拝所が設けられました。 |
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