姫路駅北口から神姫バス8系統で、終点「書写山ロープウェイ」まで所要約28分
書写山ロープウェイバス停からロープウェイ山麓駅まで徒歩すぐ。
神姫バス駅前ターミナルで、バス+ロープウェイ(何れも往復)割引セット券を取り扱っている
圓教寺(えんぎょうじ)
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⑧護法堂
⑦開山堂
白山権現

圓教寺(円教寺、えんぎょうじ)は、兵庫県姫路市の書写山(しょしゃざん)に位置する寺院で、天台宗の別格本山である。山号は書寫山(書写山)。西国三十三所第27番。現住職は第140世。宗教法人としての名称は常用漢字体の「円教寺」である

西国三十三所のうち最大規模の寺院で、「西の比叡山」と呼ばれるほど寺格は高く、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹である。京都から遠い土地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった。

境内は、仁王門から十妙院にかけての「東谷」、摩尼殿(観音堂)を中心とした「中谷」、3つの堂(三之堂)や奥の院のある「西谷」に区分される。伽藍がある標高371の書写山は、兵庫県指定の書写山鳥獣保護区(特別保護地区)に指定されている

山内には、姫路藩本多氏の墓所である本多家廟所があり、そこには本多忠刻に仕え殉死した宮本武蔵の養子・宮本三木之助などの墓もある。室町時代の応永5年(1398年)から明治維新まで女人禁制であったため、女性は東坂参道の入口にある女人堂(現・如意輪寺)に札を納めて帰った

近年では、2003年(平成15年)公開のハリウッド映画『ラストサムライ』のほか、NHK大河ドラマ『武蔵』(2003年〈平成15年〉)や『軍師官兵衛』(2014年 〈平成26年〉)のロケ地にもなった。

書写山の山上にあり、康保3年(966年)、性空の創建と伝えられる。もとは素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣」といわれ、性空入山以前よりその地に祠が祀られていたといわれる。山号の由来はこの「素盞(すさ)」からのものといわれ、姫路市と合併する以前は、飾磨郡曽左村と呼ばれていたが、この「曽左(そさ)」も素盞に由来する。創建当初は「書写寺」と称した。仏説において書写山は、釈迦如来による霊鷲山の一握の土で作られたと伝えられ、「書寫山」の字が当てられたのは、その山がまさに霊鷲山を「書き写した」ように似ることによるといわれる。また一つに、その名は、山上の僧が一心に経典を書写する姿に、山麓の人たちが崇敬をもって称したとも伝えられる

性空の生年については、西暦903年説、910年説、928年説があるが、『性空上人伝記遺続集』(三千院所有、重要文化財)によれば、性空は延喜10年(910年)の生まれで、貴族の橘氏の出身であったという。性空は出家した時、すでに36歳であり、それから約20年間、霧島山、脊振山など九州で修行を積んだ後、霊地を求める旅に出て、康保3年(966年)の57歳の時、書写山に庵を結んだのが書写寺の始まりであるとされる。入山して4年目の天禄元年(970年)、天人が書写山内のサクラの霊木を賛嘆礼拝するのを見た性空が、弟子の安鎮に命じて生木のサクラに如意輪観音の像を刻み、その崖に3間四方の堂を建てた。これが如意輪堂(現・摩尼殿)の創建であるという

性空の伝記や説話は『性空上人伝記遺続集』のほか、『元亨釈書』、『今昔物語集』などにも見られる。それらによると、性空は俗事を厭い、栄華や名声に関心がなかったが、都の皇族や貴顕の崇拝が篤かったという。なかでも性空に対する尊崇の念が強かった花山法皇は、寛和2年(986年)に来山して、圓教寺の勅号を与え、米100石を寄進。性空はこの寄進をもとに講堂(現・大講堂)を建立したとされる。花山法皇以外にも、後白河法皇や後醍醐天皇など多くの皇族が行幸、また勅願により建物の改築・改修、建立が行われている

花山法皇勅願の「円教」という寺号には、輪円具足を教えるという意味がある。円の形(輪円)は欠けたところがなく、徳において最も成就した状態を象徴していることから、自己を完成する道を教える寺の意となる

武蔵坊弁慶は、一時期、書写山で修行したとされており、机などゆかりの品も伝えられ公開されている。ただし史実である確証はない。一遍、一向俊聖、国阿らの時衆聖らが参詣したことでも知られる。一遍は入寂直前に書写山の僧に、聖教を預けた。

天正6年(1578年)、織田信長より中国地方征伐を命じられた豊臣秀吉が、播磨制圧のため乱入し、摩尼殿の本尊である如意輪観音像などを近江の長浜に持ち帰った。その後、天正8年(1580年)に、長浜より如意輪観音像だけが戻された。この摩尼殿の本尊は、性空の如意輪観音像と同木同作の如意輪観音であり、性空の生木如意輪観音像は、延徳4年(1492年)の真言堂からの火災により、蓮鏡院、如意輪堂とともに焼失している

国の史跡に指定されている圓教寺の境内は、姫路市街の北方およそ8kmに位置する書写山の山上一帯を占め、境内地は東西に長く広がる。市街地から近く、標高も371 mとそれほど高くないが、境内地には自然環境が良好に保持され、山岳寺院の様相を呈する

古来、書写山への登山道として、東坂(ひがしざか)、西坂(にしざか)、六角坂(ろっかくざか)、刀出坂(かたなでざか)、鯰尾坂(ねんびざか)、置塩坂(おしおざか)の6つがあったが、1958年(昭和33年)、東坂に沿ってロープウェイが開通してからは、ロープウェイ山上駅から仁王門を経て、摩尼殿へ上る参道が主となっている。

境内地には、明確な境界線はないが、仁王門などのある「東谷」、摩尼殿付近の「中谷」、大講堂・食堂(じきどう)・常行堂(じょうぎょうどう)および奥之院などのある「西谷」に分けられる。西国三十三所観音霊場の札所でもある摩尼殿が一山の中心となる堂であるが、圓教寺の本堂にあたる大講堂や、性空の像を祀る開山堂のある奥之院なども、信仰上重要である。(2016.3.31参詣)

⑨護法堂拝殿
④食堂
②大講堂
①摩尼殿   

旧・如意輪堂。摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇による(「摩尼」(maṇi) は梵語で「如意」の意)。 入母屋造、本瓦葺。懸造 (かけづくり、舞台造)の仏堂である。旧堂が1921年(大正10年)12月に焼失した後、再建に着手され、1933年(昭和8年)に落慶したもので[、設計は武田五一である。大工棟梁は帝室技芸員の伊藤平左衛門守道(九代)である。近代の再建ではあるが、伝統様式による木造建築で、1999年(平成11年)、国の登録有形文化財に登録され、2015年(平成27年)、市指定文化財となる。内陣に造り付けの大厨子は5間に分かれ、向かって左側の間から広目天、増長天、如意輪観音(本尊)、多聞天、持国天の各像を安置する。いずれも秘仏で、1月18日の修正会(しゅしょうえ)に開扉する
 
②大講堂   

北側に位置する大講堂は、2重1階、入母屋造、本瓦葺。桁行(正面)7間、梁間(側面)6間。下層は永享12年(1440年)に、上層は寛正3年(1462年)に建造され、文明年間(1469-1487年)に全体が整備されたと考えられる。元和8年(1622)年、藩主本多忠政により修復。1951年(昭和26年)-1956年(昭和31年)に解体修理された。もともとは寛和 2年(986年)に参詣した花山法皇の勅願により、3間四方の講堂として建立。内陣には釈迦如来および両脇侍(文殊菩薩・普賢菩薩)像を安置する
 
③常行堂   

大講堂に向き合う位置に建つ。方5間、入母屋造の常行堂の北側に、正面(東西)10間、側面2間、切妻造の吹き放しの建物が接続する特異な形式の建物である。切妻造の部分は東半部を「中門」(寝殿造の中門廊に似ることによる)、西半部を「楽屋」と称し、中央部に唐破風造、1間四方の「舞台」が突出する。屋根はすべて本瓦葺。常行堂の部分は東を正面とし、常行堂の本尊・阿弥陀如来坐像を安置する。寺伝によれば元弘年間(1331-1334年)に建立。永享8年(1436年)の焼失後、享徳2年(1453年)に再建。1963年(昭和38年)より解体修理された。  

④食堂   

別名・長堂。古くは三宝院と称された。2階の屋根は隣の常行堂の屋根に接している。桁行(正面)15間、梁間(側面)4間、入母屋造、本瓦葺。総2階建の長大な仏堂である。日本の近世以前の仏堂建築で、このように長大かつ総2階とするものは他に例がない。承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇の勅願により建立され、教興坊と称された。暦応元年(1338年)に再建、貞和4年(1348年)落慶というが、現在の建物は、様式などにより室町時代中期のものと考えられる。1階は柱間15間のうち、北寄りの1間を引戸とするほかはすべて蔀戸(しとみど)とし、腰壁を設け、内部は円柱が並ぶ広大な1室とするなど、他に例を見ない構成になっている。1959年(昭和34年)より解体修理された。2階はガラスケースを設置して宝物館としており、食堂の本尊となる僧形文殊菩薩像のほか、寺内の諸堂にあった仏像などがここに移されている。堂内は仏像や絵画などの寺宝が展示されている。
 
⑤鐘楼   

入母屋造、本瓦葺。桁行3間、梁間2間。様式は袴腰付で腰組をもった正規の鐘楼である。鎌倉時代、寺記によれば元亨4年(1324年)に鐘を再度鋳造したとあり、鐘楼は元徳3年・元弘元年(1331年)に焼失、元徳4年・元弘2年(1332年)に再建されたという。構造からも14世紀前半に建立されたものと考えられるが、15世紀中頃に修理された跡も見られる。  

⑥金剛堂   

旧塔頭・普賢院の持仏堂。室町時代、1544年(天文13年)建立。方3間[。入母屋造、本瓦葺。1958年(昭和33年)に修理された
 
⑦開山堂   

宝形造(方形造)、本瓦葺、桁行5間、梁間6間。開山の性空を祀る。寺記によれば、性空が没した寛弘4年(1007年)、性空の高弟・延照が創建したとするが、現在の堂は江戸時代初期、寛文11年(1671年)に再建されたものである。 

⑧護法堂 
 

開山堂の右前に2棟並ぶ、それぞれ1間、社隅木入春日造の社殿。檜皮葺(ひわだぶき)。室町時代後期、永禄2年(1559年)建立。各社前に、寛文年間(1661-1672年)に建立された石造の明神鳥居がある。乙天・若天は、性空を守護した護法童子とされ、それぞれ不動明王・毘沙門天の化身とされる
 
⑨護法堂拝殿   

切妻造、本瓦葺。桁行(正面)7間、梁間(側面)2間の懸造の細長い建物。「弁慶の学問所」として知られる。天正17年(1589年)建立。1962年(昭和37年)に解体修理された
 




⑥金剛堂
③常行堂
⑤鐘楼
仁王門
創建年:966年 開基:性空 本尊:如意輪観音
別称:西の比叡山 宗派:天台宗
 
①摩尼殿


境内図は看板より