永平寺(えいへいじ) |
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。父は村上源氏の流れをくむ名門久我家の久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。比叡山を下りた道元は真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。 旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。 当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。 寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。 その後の永平寺は、2世孤雲懐奘、3世徹通義介のもとで整備が進められた。義介が三代相論で下山し4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。その後も火災に見舞われ、現存の諸堂は全て近世以降のものである。(2013.9.17訪問) |
創建年:1244年 | 開基:道元 | 本尊:釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来 | 別称:・・・ | 宗派:曹洞宗 |
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①法堂 | 1843年に改築され説法の道場。中央には本尊<聖観世音菩薩>を祀り階段の左右には阿吽の白獅子がおかれている。7堂伽藍の中で最も高いところに位置している。 | |
②仏殿 | 1902年の改築で中国宋時代様式の二重屋根と床は石畳となった美しい伽藍です。中央の須弥壇の上には本尊の釈迦牟尼仏が祀られ、三体の仏像は向かって左から過去・現在・未来の三世を現している。 | |
③大庫院 | 昭和5年(1930年)の建築。地上3階地下1階の近代木造建築で、台所兼事務所の役を果たす。建築当時のエレベーターが現存しており、これは稼動中のものとしては日本最古といわれる。 | |
④僧堂 | 1902年の改築で坐禅・食事・就寝に至るまでの修行の根本道場であり、堂内中央には智慧の象徴である文殊菩薩を安置しその周りに約90名が坐禅の出来る<単>と呼ばれる席がある。 | |
⑤山門 | 1749年に再建された中国唐時代様式の楼閣門で、両側には仏教の守護神である四天王が安置され、見上げると吉祥山永平寺の命名の由来である<吉祥の額>が掲げられている。 | |
⑥承陽殿 | 明治14年(1881年)の建築。開山道元の廟で、道元以下第5世までの住職の像を安置する。 | |
⑦浴室 | 入浴は作法に従って厳粛に行われ、水を大切に使い、身も心も清浄となるための大切な修行の場です。 | |
⑧鐘楼堂 | 1963年の改築で、中に吊された除夜の鐘で有名な大梵鐘は重さが5トンあります。一日に朝・昼・夕方・夜の四回修行僧が撞きますが、一撞きごとにお拝をします。 | |
⑨祠堂殿 | 1930年の新築で、一般の人の納骨や供養などの法要が勤められている。堂内には全国の信者から納められた位牌が安置されている。 | |
⑩報恩塔 | 1996年建立された、写経を納める塔です。 |