叡福寺(えいふくじ) |
叡福寺(えいふくじ)は、大阪府南河内郡太子町にある仏教寺院。聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳(磯長墓〈しながぼ〉)があることで知られる。山号は磯長山(しながさん)、本尊は如意輪観音である。開基(創立者)は、聖徳太子または推古天皇とも、聖武天皇ともいわれる。宗派は真言宗系の単立寺院で、太子宗を名乗る。また「上之太子」と呼ばれ、「中之太子」野中寺(羽曳野市)、「下之太子」大聖勝軍寺(八尾市)とともに三太子の一つに数えられている。 寺伝によれば、聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたという。推古天皇29年(621年)、穴穂部間人皇女が没するとここに葬られる。翌年の推古天皇30年(622年)には、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬されたといわれる。太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている。約1世紀後の神亀元年(724年)、聖武天皇の発願で東院・西院の2つの伽藍を整備し、西院を叡福寺と称したというが、このことは正史には見えず、史実かどうか定かではない。叡福寺の創建年代については諸説あり、実際の創建は平安時代以降に下るとする見かたもある。 叡福寺は聖徳太子ゆかりの寺として、歴代の天皇や権力者に重んぜられた。平安時代には嵯峨天皇をはじめ多くの天皇が参拝しており、平清盛は子息の平重盛に命じて堂塔の修理をさせている。また聖徳太子は、仏教の興隆に尽力したため、日本仏教の開祖として賛仰された。空海・良忍・親鸞・日蓮・一遍など新仏教の開祖となった僧たちが、墓所があるこの寺に参籠したことが知られている。 当寺は、天正2年(1574年)の織田信長による兵火で大きな被害を受け、古代の建物は残っていない。その後、慶長年間(1596年 - 1615年)、後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が伽藍を再興した。(2016.9.15参詣) |
①山門(南大門) | 1574年に焼失したが、慶長年間に再建された。また1958年に再建築された。 |
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②多宝塔 | 現存の多宝塔は1652年に建てられた。内部には釈迦像や大日如来像等が安置されている。 |
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③金堂 | 現在の金堂は1732年に再建された。金堂には如意輪観世音菩薩が祀られている。 |
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④聖霊殿 | 現在の聖霊殿は豊臣秀頼が1603年に再建したものである。その後幾度となく改修されている。 聖霊殿には聖徳太子十六歳の等身像が祀られている。 |
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⑤二天門 | 1603年に再建されたもので、その後幾度となく改修されている。 |
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⑥太子御廟 | 廟は宮内庁の管轄になっており、垣の中に入ることはできない。 |
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⑦ 見真大師堂 | 1603年に再建されたもので、現存の建物は1912年に再建築されたものである。 見真大師堂には親鸞聖人の坐像が祀られている。 |
創建年:724年 | 開基:聖武天皇 | 本尊:聖如意輪観世音菩薩 | 別称:上の太子 | 宗派:真言宗系単立 |
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