本堂 
 
 本尊十一面観音立像(重文)を安置する。本尊は秘仏で、10-11月のみ公開される。
嘶堂   
 -馬頭観音立像(重文)を安置する。像は秘仏で、3月のみ公開される。
 





 
南 門
宝物倉
大安寺(だいあんじ)

奈良交通バス停「大安寺」から徒歩10分。

創建年:(伝)飛鳥時代 開基:(伝)聖徳太子 本尊:十一面観音 別称:・・・ 宗派:高野山真言宗




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嘶 堂
本 堂

大安寺(だいあんじ)は、奈良市中心部にある高野山真言宗の仏教寺院。本尊は十一面観音。開基(創立者)は聖徳太子と伝える。南都七大寺の1つで、奈良時代(平城京)から平安時代前半までは、東大寺や興福寺と並ぶ大寺であった。

縁起によれば、聖徳太子の建てた「熊凝精舎」(くまごりしょうじゃ、「熊凝道場」とも)が官寺となり、その後に移転や改称を繰り返したとされる。平城京に移って大安寺を称した時の伽藍は東大寺、興福寺と並んで壮大であり、東西に2基の七重塔が立ち(七重塔を持つ南都七大寺は他には東大寺のみ)、「南大寺」の別名があった。この時代、東大寺大仏開眼の導師を務めたインド僧・菩提僊那をはじめとする歴史上著名な僧が在籍し、日本仏教史上重要な役割を果たしてきた。

平安時代以後は徐々に衰退し、寛仁元年(1017年)の火災で主要堂塔を焼失して以後は、かつての隆盛を回復することはなかった。現存する大安寺の堂宇はいずれも近世末〜近代の再建であり、規模も著しく縮小している。奈良時代にさかのぼる遺品としては、8世紀末頃の制作と思われる木彫仏9体が残るのみである。

現代は癌封じなどに利益(りやく)がある寺と自らを位置付けている。参拝者が、竹筒に入れて温めた日本酒を飲んで健康を祈る「笹酒祭り」は、奈良時代末期の光仁天皇の故事にちなむと伝承されている

当寺の歴史については、天平19年(747年)の『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(だいあんじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう、以下『大安寺資財帳』)と正史『日本書紀』『続日本紀』の記述が根本史料となっている。これによれば、病床の聖徳太子を田村皇子(後の舒明天皇)が見舞った際に、皇子に「熊凝精舎」を大寺として造営してほしいと告げた、という。「大寺」とは文字どおり「大きな寺」の意味でもあるが、原義は「私寺」に対する「官寺」の意である

「熊凝精舎」は、大和郡山市額田部(ぬかたべ)に現存する額安寺(額田寺)がその跡ともいわれる。石田茂作は「熊凝精舎 = 額田寺」説をとったが、福山敏男は、熊凝精舎を額田寺に当てる説は鎌倉時代の『聖徳太子伝私記』に初めてみえることなどから、熊凝精舎の実在自体を疑問視し、日本仏教興隆の祖とされる聖徳太子を創立者に仮託した伝承とみる。平安京に移ってからの大安寺の伽藍整備に力のあった僧・道慈が額田氏の出身であるところから、額田氏の氏寺である額田寺と関連づけられたのではないかとみられている

田村皇子は太子の意向を承けて、即位後の舒明天皇11年(639年)、百済川のほとりに大宮と大寺を建て始めた。『日本書紀』の同年七月条には「今年、大宮及び大寺を造作(つく)らしむ」「則ち百済川の側(ほとり)を以て宮処とす」とある。これが百済大宮と百済大寺である。 百済大寺は日本最初の官寺であり、国の大寺として尊崇を集めた。『日本書紀』によれば大化元年(645年)8月には孝徳天皇が大寺に使いを派遣して十師を定め、このとき恵妙(慧妙とも)が百済大寺の寺主となっている

百済大寺の位置は長年不明であった。奈良県北葛城郡広陵町の百済寺を百済大寺跡とする説は江戸時代からあったが、飛鳥から遠く離れた同地と舒明天皇との関連は明確でなく、付近に天皇建立の寺院らしき寺跡の発見や古瓦の出土もない。奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)による調査の結果、1997年(平成9年)に奈良県桜井市南西部にある吉備池廃寺跡が百済大寺跡と推定されるとの見解を発表した。この寺跡は藤原宮跡の東方、かつて磐余(いわれ)と呼ばれた地区にある。その後、2002年(平成14年)まで継続された発掘調査では、吉備池廃寺の伽藍の様子が明らかになった。

吉備池廃寺は東に金堂、西に塔が建つ法隆寺式伽藍配置の寺院であったことが明らかになり、発掘された古瓦の様式年代からもこの寺院が舒明天皇11年(639年)に建立された百済大寺に該当する可能性は高いと見られている。また中心伽藍跡の北部が溜池になっていることもあり、講堂の跡などは確認されていないが、金堂、塔、東・西・南の回廊などの跡が確認されている。金堂跡には礎石は残っておらず、柱の配置は不明だが、基壇は東西が37メートル、南北が25メートルで、南側の張り出し部を含むと南北は28メートルとなる。塔の基壇は一辺32メートルの大規模なもので、規模からみて九重塔が建っていたとみられる。回廊の東西は外側柱間の距離で156.2メートルとなり、高麗尺の440尺に相当する

天武天皇2年(673年)12月17日、御野王(「みののおおきみ」で美濃王と同じ)と紀訶多麻呂が造寺司に任命され、この時に寺を百済の地から高市の地に移したとあり(『大安寺資財帳』)、『日本書紀』の同じ日の条に、美濃王と紀訶多麻呂が造高市大寺司に任命されたとある。この前年の天武天皇元年(672年)は、壬申の乱で天武天皇(大海人皇子)が勝利している。高市に寺を移した年は、天武天皇の父舒明天皇の三十三回忌、母斉明天皇の十三回忌にあたることが指摘されている。 吉備池廃寺から出土した瓦は、軒丸瓦が重圏文縁単弁八弁蓮華文、軒平瓦が忍冬唐草文型押で、軒丸瓦・軒平瓦ともに、わずかにデザインの異なる2種類がある。このうち、軒丸瓦は四天王寺と海会寺で同笵瓦が使われているが、瓦面の傷などから判断して、四天王寺・海会寺よりも吉備池廃寺出土瓦の方が先行して製作されたとみられる。一方、軒平瓦は2種類のうちの1つは法隆寺の前身である若草伽藍で同笵瓦が使われているが、こちらは吉備池廃寺出土瓦よりも若草伽藍瓦の方が先行する。類似の瓦は山田寺でも使用されているが、山田寺出土瓦の方が様式的に後のものとみられる。以上のことから、吉備池廃寺の建立は、法隆寺の前身の若草伽藍より後で、舒明天皇13年(641年)から建立の開始された山田寺よりは先行する、630年代から640年代初めに位置付けられる。これは前述の百済大寺の建立が開始された年代と符合する。また、建物の規模の大きさに比して瓦の出土量が少なく、金堂や塔の礎石は全く残っておらず、火災に遭った形跡もない。出土した瓦も前述の様式のもののみで、補修用の瓦などはみられない。以上のことは、この寺は創建からあまり時を隔てずに建物ごと別の場所に移転した可能性を示唆している

『日本書紀』『大安寺資財帳』には、天武天皇6年(677年)9月、この高市の大寺を改称し、大官大寺としたと見える。その後も文武天皇(在位697年 - 707年)の治世に至っても大官大寺の堂塔の造営が行われている状況が窺える。ただし、天武朝の大官大寺(高市大寺)と文武朝の大官大寺の関係については、1965年(昭和40年)に田村吉永が別寺説を唱えた。その後の発掘調査や研究の進展(後述)により、両者は別の場所に建っていた可能性が高いと考えられている。改称前の高市大寺の所在については不明であるが、香久山の西北、藤原宮の東にあった木之本廃寺が有力候補とされている

和銅3年(710年)の平城京への遷都に従い、飛鳥地方にあった7世紀建立の寺院のうち、法興寺(飛鳥寺とも、→元興寺)、薬師寺(→遷都後の薬師寺)、厩坂寺(うまやさかでら、かつては山階寺、→興福寺)などは新都へ移転している。大官大寺も、説では霊亀2年(716年)に平城京左京六条四坊の地へ移転し、大安寺となった。これらはすべて後に東大寺、西大寺、法隆寺(あるいは唐招提寺)とともに南都七大寺に数え上げられている。

平城京の街路は1町(約109メートル)ごとに碁盤目状に配され、4町ごとに走る東西路は一条大路、二条大路・・、南北路は一坊大路、二坊大路・・、と名付けられていた。大安寺の正門にあたる南大門は六条大路に面して建っていたが、寺域は六条大路の南側にも伸び、東西3町、南北5町に及ぶ広大なものであった。伽藍配置の特色は、東西両塔(七重塔)が金堂から大きく離れ、南大門の外側(南方)に建つことであり、「大安寺式伽藍配置」と称されている。

この時代の大安寺は元興寺と並んで日本における三論宗の2大流を成した。三論宗は、隋代に嘉祥大師吉蔵(549年 - 623年)が大成した宗派で、智蔵の弟子で唐に16年間滞在した留学僧・道慈は、護国経典として重視された新訳『金光明最勝王経』を日本にもたらし大安寺の整備に尽力するなど、道慈は奈良時代に上代仏教史上重要な人物である。『大安寺資財帳』の天平19年(747年)の記録によれば、当時大安寺には887名の僧が居住していた。唐僧・鑑真を日本へ招請するため唐に派遣された普照と栄叡、空海や最澄と交流のあった勤操、また最澄の師にあたる行表も大安寺の僧であり、大安寺が日本の上代仏教の発展に果たした役割は大きかった。天平8年(736年)、大安寺には行基、理鏡、栄叡、普照らの招きにより、インド僧の菩提僊那、唐僧の道璿、林邑(チャンパ、現在のベトナム)僧の仏哲が来朝して滞在するなど、帰化僧・留学僧を含む著名な僧も在籍した。菩提僊那は東大寺大仏開眼の導師を務めた僧として知られる。 (2019.5.14参詣)