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①大師堂 | 室町時代の永正6年(1507年)建立。宝形造・銅板葺の三間堂、堂前面に入母屋造の礼堂を接続する。屋根の宝珠銘から建立年代、および紀ノ川方面からやって来た大工が建立に携わったことが分かる。「阿弥陀寺大師堂」として和歌山県指定文化財(1981年〈昭和56年〉7月13日指定)[。 | |
②鐘楼 | 前述の「亡者の一つ鐘」の鐘楼。鎌倉時代の『元亨釈書』に初出し、現世安穏と先祖菩提のために、生前に一度は撞いておくべきことが勧められている。現存する鐘は、延宝6年(1678年)の鋳造と伝えられる。那智勝浦町指定有形文化財(美術工芸品)である。 | |
③火生三昧跡(かしょ うざんまい) | 平安時代の法華持経者、応照が火生三昧(焼身による捨身行)をおこなった遺構と伝えられる。応照は、すべての衆生の罪をわが身に負って、その罪ごと身体を焼尽することを志し、食を断って心身を浄化した末、薪の上に座し、紙の衣をまとって自ら薪に火を放った。身体が燃え尽きるまで晴朗な読経の声がやむことは無かったと伝えられる。 |
阿弥陀寺(あみだじ) |
阿弥陀寺(あみだじ)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある真言宗御室派の寺院。山号は妙法山。本尊は阿弥陀如来。那智山の一角をなす妙法山の中腹にある。 奈良時代の唱導説話集である『日本霊異記』に、法華持経者の永興禅師とその同行の禅師が熊野の山中で捨身行に臨み、骸骨のみの姿になっても、その舌のみは依然として生前と同様に法華経を誦し続けていたと伝えているが、この山とは那智山中の妙法山であると言われている。また、『本朝法華験記』に見える「奈智山応照法師」の伝は、応照という法師が火定による捨身入滅を果たしたとし、火定炉跡が阿弥陀寺境内に残されていることから、この「奈智山」は妙法山に比定される。こうした点から、妙法山に集って過酷な捨身行に勤しんでいた法華持経者によって阿弥陀寺は開かれたと考えられている。その後、鎌倉時代の弘安3年(1280年)に鷲峰山興国寺開山の法燈国師覚心の再興により(『元亨釈書』)浄土信仰の今日の阿弥陀寺が確立されただけでなく、念仏と納骨の山としたと見られており、史料上、阿弥陀寺の存在が確実なのはこの時期からである。 永正6年(1509年)、本堂から奥の院(浄土堂)への山道の途中に大師堂が建立された。慶長6年(1601年)の検地に際しては、新宮城主浅野氏より5石が寄進され、以後、代々にわたって続けられた。 明治時代に一時期衰えたが、1884年(明治17年)に再興された際に真言宗寺院に転じた。1981年(昭和56年)、火災により本堂が消失し、慶派作の本尊阿弥陀如来を含む多くの寺宝が失われた。現存する本堂と本尊は、1984年(昭和59年)に再建されたものである。2014年、高野山真言宗から真言宗御室派に転じた。 覚心は臨済宗興国寺派の宗祖として知られるが、念仏だけでなく真言をも修し、高野聖のなかでも萱堂聖の宗祖でもある。阿弥陀寺は近世中期まで、那智山の諸堂の造営・修覆にあたる那智七本願の一角を占めたが、阿弥陀寺に属する勧進聖の組織は覚心が阿弥陀寺を再興する際に築いたものと見られている。熊野三山の勧進を担った熊野山伏や熊野比丘尼による唱導の際に絵解きされた那智参詣曼荼羅や熊野観心十界曼荼羅は妙法山をモデルにしたと言われ、那智参詣曼荼羅には妙法山詣が描かれている。 妙法山はまた、熊野における特異な葬送民俗伝承との関係が深い。熊野では、死者の枕元に供える3合の枕飯が炊き上がるまでの間、死者の霊魂は、枕元に手向けられた樒(しきみ)の葉を手にして妙法山に参詣し、鐘をつくとの伝承(『紀伊続風土記』)から、阿弥陀寺の鐘は「亡者の一つ鐘」と呼ばれ、「人なきに鳴る」と称される。奥の院周辺はとくに樒山(しきみやま)とも呼ばれるが、この名は死者が携えてきた樒が奥の院周辺に落とされるとの伝承によるものである。 こうした民俗伝承は、覚心による再興後の阿弥陀寺が山岳霊場となり、念仏と分骨・分髪の寺院となったことと関係しているが、分骨・分髪や死者供養の習俗は今も続けられている。(2014.11.5訪問) |
創建年:伝・703年 | 開基:伝・蓮寂上人 | 本尊:阿弥陀如来 | 別称:・・・ | 宗派:真言宗御室派 |