霊堂
③大元堂
①本堂
秋篠寺(あきしのでら)




 
宝亀7年(776年)、光仁天皇の勅願により善珠僧正が薬師如来を本尊とする寺を造営したのが始まりとされている(一説には、それ以前に秋篠氏の氏寺がすでに当地に営まれており、光仁天皇が善珠僧正を招いて勅願寺に変えたとも言う)。

宝亀元年(770年)称徳天皇の崩御により天武天皇の男系が断絶した。藤原百川は左大臣・藤原永手らとともに天智天皇の孫である白壁王(光仁天皇)を即位させ、天智天皇皇孫の井上内親王を母とする他戸親王が皇太子に立てられた。しかし 宝亀3年(772年)、皇后が天皇を呪詛したとの嫌疑により廃后され、連座する形で親王もまた廃太子された。宝亀6年4月27日(775年5月30日)、井上内親王・他戸親王母子が幽閉先で急死。一連の事件は、他戸親王に代わって皇太子に立てられた山部親王(のちの桓武天皇)と藤原百川、藤原蔵下麻呂ら藤原式家の陰謀によると言われ、暗殺説も根強い。

宝亀6年(775年)、即位に関わった藤原蔵下麻呂が42歳で没する。さらに翌年にも天変地異が相次ぎ、怨霊を恐れた天皇は秋篠寺建立の勅願を発することとなった。(日照り、飢饉、異常な風雨、落雷、地震が続いた。宝亀7年5月、朝廷は「大祓」を余儀なくされたが、それでも天変地異は衰えず9月26日には、「瓦や土塊が庁舎や都中のあちこちの屋根に落ち降り積もってくる」という不思議な現象が起こり、二十日余りも続いた。人々は、讒言による死で廃后・廃太子は怨霊となられたのだと恐れ慄き、廃后は龍になって祟っているのだ、という噂まで立った。)

秋篠寺に関する文献で、『続日本紀』に宝亀11年(780年)、光仁天皇が秋篠寺に食封(じきふ)一百戸を施入した、という記述がある(食封とは、一定地域の戸(世帯)から上がる租庸調を給与や寺院の維持費等として支給するもの)。その翌年の天応元年(781年)、ついに富士山までもが噴火(富士山の噴火史)し、12月、光仁天皇は崩御されるに至った。勅願から5年後のことである。『日本後紀』には大同元年(806年)、桓武天皇の五七忌(三十五日)が秋篠寺で行われたことが見える。勅願寺であるが故に皇室とも関わりの深い寺院である。

秋篠寺は平安時代後期から寺領を増大させ、南に位置する西大寺との間にはたびたび寺領をめぐる争論があったことが、西大寺側に残る史料からわかる。保延元年(1135年)には火災により講堂以外の主要伽藍を焼失した。現存する本堂(国宝)は、旧講堂の位置に建つが、創建当時のものではなく、鎌倉時代の再建である。

宗旨は、かつては法相宗と真言宗を兼学し、明治時代以降浄土宗に属した時期もあるが、現在は単立となっている。(2013.11.29訪問)


創建年:奈良時代末期 開基:(伝)善珠 本尊:薬師如来 別称:・・・ 宗派:単立
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①本堂  
 
鎌倉時代の建立で、当時の和様仏堂の代表作の1つである。正面5間、側面4間。屋根は寄棟造、本瓦葺き。堂の周囲には縁などを設けず、内部は床を張らずに土間とする。正面の柱間5間は中央3間を格子戸、左右両端の間を連子窓とする。全体に保守的で簡素な構成で、鎌倉時代の再建でありながら奈良時代建築を思わせる様式を示す建物である。和様建築では柱上部の頭貫(かしらぬき)以外には貫を用いず長押を使用するのが原則だが、この建物では内法長押(うちのりなげし)の下に内法貫を使用し、内部の繋虹梁(つなぎこうりょう)も身舎(もや)側では柱に差し込むなどの新技法が使われている。なお、建物内部の柱にも風蝕痕が残ることなどから、建立当初は建物前面の左右5間・奥行1間分を、壁や建具を入れない吹き放しとしていたと推定される。堂内には本尊薬師三尊像(重文)を中心に、十二神将像、地蔵菩薩立像(重文)、帝釈天立像(重文)、伎芸天立像(重文)などを安置する。

②香水閣  
 
本堂東側、東門近くにある井戸。平安時代の初め、僧常暁が当時の閼伽井の水面に映る大元帥明王像を感得したという故地である。

③大元堂  

 
本堂西側。秘仏の大元帥明王像を安置する。




近鉄大和西大寺駅下車。奈良交通バス72号系統押熊行きに乗車の上、「秋篠寺」バス停下車。





十三重の塔
開山堂
金堂跡
②香水閣
東門
東塔跡礎石
南門